【死との向き合いと受容】その3

<プエブロ・インディアンの詩>
今日は死ぬのにもってこいの日だ
生きているものすべてが、私と呼吸を合わせている
すべての声が、私の中で呼吸している
すべての美が、私の目の中で休もうとしてやってきた
あらゆるわるい考えは、私から立ち去っていった
今日は死ぬのにもってこいの日だ
私の土地は、私を静かに取り巻いている
私の畑は、もうたがやされることはない
私の家は、笑いで満ちている
子どもたちは、家にかえってきた
そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ
死をこんなに明るく捉えられる人たちが、いらしたのですね。正直驚きました。これでは、亡くなって「ご愁傷様です」と言う訳にはいきません(微笑)。
こんな感覚で生きられたなら、どんなに平安で幸せなことでしょう。と思いつつも今の日本人には、遠い世界かな・・・・
さて、
これほど美しく前向きに捉えることのできる理由は、何でしょうか?
それは、人間どうしのつながりだけでなく、自然、世界、宇宙、つまり我々を取り巻く大いなるものとつながり生かされている感覚を持てることによると言われています。
実は、自然と大いなる仏さまに抱かれて生きている、という文化は、かつて日本にもあったのです。詳細については、またいずれかの時に・・・。
近代の科学と科学技術と産業の発展(飛躍的拡大)は、私たちの生活を物質的に豊かに快適にしました。その代わり自然もかつての文化や宗教も縮小してゆきました。その役割をほぼ終えたかのようにさえ思われたことがありました。
しかし、地球環境問題や大量破壊兵器の開発・使用など文明の矛盾や負の結果も無視できないほど大きくなりました。 医学の発展は、少なからぬ病気の当面の治癒を可能としましたが、根本的な治癒をもたらしたかどうは疑わしい(新たな病気が、起こって絶えることがない)ですし、病、老いや死の不安そのものを取り除くものではありません。
そこでふたたびかつての(精神)文化が、見直されようとしています。迷信とか古臭いなどと揶揄されていた祈りや瞑想も科学研究が可能となり、ふたたび意味を見出そうとしています。また時代の変遷も含め世界中の文化・文明の情報については、どこに居ても瞬時に得られるようになりました。
さあ、そこで、これまでの正も負もどちらの経験もいかして
『ほんとうの幸せとは何か?』
ということを深く広く長い目で考え導き出せる(すべき)時代が、これからこそ、到来するであろうことを感じています。
自然、空の画像のようです
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