なぜ大法上人を師として唱題をすることとなったのか その1

さまざまな宗派の修行を体験して唱題に行き着き、わたしは日蓮宗の僧侶となりました。なぜ最終的にお題目を唱えるという修行を選んだのか。また僧侶になったのか。そのわけは後に回すことにして、まず、なぜわたしが大法上人を修行の師として唱題をすることとなったのかを述べることにいたします。

仏教の修行の目的。それは、あらゆる執着、囚われから解き放たれ、平安、喜びを得て、最終的には、どこまでも深い慈悲と智慧をそなえた仏と成ることにあります。

私は十数年間、唱題修行をしてきました。

唱題をしていく過程で、わたしの心は落ち着きを得ることができるようにはなりました。ですが、自分を縛っている思いから解放され、深い平安、湧き出てくる喜びといったものを感じることはできていませんでした。

大法上人を修行の師と仰いだのは、師の唱題を聞いて、「このようなお題目を唱えることができれば、深い平安と喜びを感じることができるのでは」と、修行が停滞している中で希望の光を得たからです。

ディール・カーネギーの有名な自己啓発書、『道は開ける』につぎのような記述があります。

「私たちが日常生活で得られる心の安らぎや喜びは、自分の居場所や持ち物や、身分によって左右されるものではなく、気持ちの持ちよう一つできまる…。外部の条件はほとんど関係がない。」

まさにそのとおりだと思います。物質的、社会的に恵まれていても心の安らぎや喜びがない人はたくさんいます。

先日、東横線に乗車していた時のことです。

ラッシュアワーの時間帯の前でしたが、車内には多くの人立っていました。何気なく周囲の人の顔を見ると、学生もサラリーマンとおぼしき人も皆、生気のない顔をしています。仕立ての良いスーツを着た紳士は苦虫をかみつぶしたような顔をしていました。

そこに白い杖をついた、つつましい身なりの青年が乗車してきました。目が不自由なようです。ですが彼は穏やかな顔をしていました。何か明るく軽やかなものも感じました

気持ちの持ちよう一つで幸せになれる。そう、わたしはその青年を見て痛感しました。

とはいうものの「気持ちの持ちよう」を改善するというのは実に難しいものです。周囲の人との関わりの中で、しょっちゅう傷ついたり落ち込んだりする自分。そんな自分の「気持ちの持ちよう」をコントロールすることは、わたしにとって、唱題修行をしていても容易なことではありませんでした。それが大法上人の指導下で唱題をしてみて、唱題によって「道は開ける」と確信できるようになったのです。

大法上人とはじめて出会ったのは、六本木、妙善寺の本堂で行われた唱題プラクティスの場でした。大法師のことを知ったのはその前日です。インターネットを検索中に、たまたま上人のことを紹介するエッセイに遭遇したのです。そこには、大法師がお題目を唱える僧侶であることと、エッセイの筆者が大法師の下(もと)で癒された経験が記されていました。それまで師のことはまったく知りませんでした。

読了してすぐ、わたしは「この僧侶に会おう」と決めました。明確な理由があったわけではありません。この僧侶はわたしの求めているものを与えてくれるかもしれない。そのように直感したのです。

偶然の出会いが人生を変えることがある。今はそんなことをつくづくと感じています。目に見えない仏の世界のはからいがあったのかもしれません。

つづく