地涌唱題プラクティス(瞑想)について

所詮瞑想とは、止観を出ず。今日巷では、マインドフルネス(※a)などとも言われる。地涌唱題プラクティスは、いわゆるマインドフルネスを超えるマインドフルネス、止観を超える止観として、また今日世間で行われているいわゆる唱題行をも超える唱題としてもたらされた実践法である。それは、以下の特長を有する。

地涌唱題プラクティスの5大特長                             (1)分かたれた止と観の伝統的瞑想法を統合(一本)                                  (2)目的が久遠の仏陀の究極の覚りとして明確に設定され(究極)                                 (3)不完全な人間の教師ではなく究極の覚りの体現者である久遠の仏陀によって直接体験的に導かれるという確かさと壮大さ(無限)を併せ持つ(本師)                          (4)宗教・宗派、人種、教養の有無等を問わず誰でも実践可能(円満)               (5)実効性・速効性をもつ実践法(速効)  

             

これより少しく詳細を述べる。

<概要>                                                      地涌唱題プラクティスとは、瞑想の要素を包み込む。いわゆる瞑想を超えた実践法である。

瞑想とは、止観のことである。今日マインドフルネスとも言われる。「止」とは、心を止めること、すなわち何か対象に心を集中することである。「観」とは、心のあり様や状態を観察することである。洞察とも言う。

唱題とは、題目を唱える行為のことを言う。題目とは、南無妙法蓮華経である。プラクティスとは、実践ということである。修行である。唱題プラクティスとは、御題目を唱える実践行のことである。南無妙法蓮華経とひたすら集中して唱える修行のことである。従って、唱題は「止」よりはじまる。しかしそれに止まらず「観」が開ける。但し、この「観」の質・内容においていわゆるマインドフルネスや止観瞑想とは一線を画する。何故ならそれは、個人による観察(洞察)ではなく究極の佛である久遠の仏陀からもたらされる体験を通した「観」だからである。

妙法蓮華経ないし南無妙法蓮華経とは、法華経如来壽量品に説かれた久遠の仏陀のたましい(心)を一言で表した言霊(ことだま)である。すなわち唱題プラクティスの真の目的は、南無妙法蓮華経とひとつになることであり、久遠の仏陀と一如となることである。その時、我(が)は超えられる(※b)。以上は、理論上、教義上のことである。実践においては、当然ながらその実現が問われる。しかし今日巷で行われている唱題は、そのことを満たしているものはほとんどない。真の内容が現わされていない。そこでその言葉のほんらいの意義と内容を明確にするために“地涌唱題プラクティス”が登場する必要があった。唱題本来の意義と内容を回復するためである。詳細については、後述するつもりであるが、以下簡単に述べる。

「地涌(じゆ)」とは、法華経従地涌出品第十五 の大の下の虚空より菩薩がき出たという経文から「地涌」というのである。唱題の前に「地涌」という二文字が冠せられたことは、深重の意味がある。すなわち唱題の実践行を真に行うと、従地涌出品に大の下の虚空より菩薩がき出るが如く、「一心欲見佛 不自惜身命(※c)」の唱題により終に元品の無明(※d)が断破された時に壮大極まりない地涌の菩薩心が、実践者の身より滾々と涌き出る。此の状態を地涌、すなわち地涌の御題目、或いは地涌の唱題というのである。此の現象を以て御本尊つまり久遠の仏陀のたましい(御心)としての御題目とそれ以前(未だそこに至らない)の御題目とが峻別されるのである。御本尊の中央に書せられる南無妙法蓮華経とは地涌の題目のことである。それ以前の御題目は、これに比べれば、迹門あるいは方便の或いは呪術レベルの題目である。

※a・・・マサチューセッツ大学医学大学院教授・同大マインドフルネスセンター創設所長 ジョン・がバットジンは、マインドフルネス瞑想を応用して「マインドフルネスストレス低減法 MBSR」「マインドフルネス認知療法 MBCT」を提唱した。しかし、これらは、あくまでストレスを低減させたり、心理療法であり、彼自身が行うマインドフルネス瞑想は、深いものである。日常の心の気づきに止まらず、「何かを欲して止まない心」からの解放であり、宇宙的な意識に目覚めることにある、と言う。 一口にマインドフルネスといってもその目的・成果に大きな幅のある概念だと知らねばならない。「何かを欲して止まない心」からの解放とは、すなわち四諦の滅諦を成就することに相当するものと思われる。法華経の目指すところは、四諦(苦諦、集諦、滅諦、道諦)に止まらない。より偉大なる目的すなわち仏陀の慈悲と智慧を得る(成仏)ことにある。 

※b・・・自我を超える、ということは宇宙の一員として生きる、ということである。世界や地球を思うままにコントロールしようという傲慢な発想(自我の特徴である)と行為は、地球や自然を破壊し、人類滅亡に帰結せざるを得ない。

※c・・・妙法蓮華經如来壽量品第十六 久遠偈 に説かれ、久遠の仏陀と出会うための極意を表している。     

※d・・・元品の無明(がんぼんのむみょう)。人が生来持っている、あらゆる迷いの根元である。これが破られる時、内なる久遠の仏陀の心(光明)が実践者の身に体験される。妙法蓮華経従地涌出品第十五に於ける地涌の菩薩の涌出は、元品の無明が断破された瞬間の事象を象徴的に表現している。地涌唱題の一大特長である。

つづく。

<マインドフルネスを超えるマインドフルネスである理由>・・・・・・・・・・・・・