「新宗教は怪しい。伝統仏教は無力」。前回このように記しましたが、これはお題目についても同様のことが言えそうです。
「新宗教の人たちが唱えるお題目は危険な匂いがする。仏教の僧侶が唱えるお題目は、伝統文化の中で継承されてきたもので、危険ではないだろう。だが心の救済という点で力はなさそうだ。」
現代人のお題目についての大方のイメージはこのようなものではないでしょうか。
お題目を唱える一部の新宗教の人たちの強引な布教に不快な思いを抱いている人は多く、特にお題目系の新宗教は用心されているようです。
大法上人は大学病院で精神科医をしていらっしゃったので、大法師に心の悩みを相談する人は、師を僧侶としてというよりも(もちろんそれもあるでしょうが)精神科医として、その人格を信頼して師のカウンセリング受けているようです。そのため、大法師とのご縁で唱題をしている人は、それが仏教の修行法であると強く認識していない気がするのです。
そのことを、むしろ好ましいとわたくしが思うのは、「怪しい」とか「無力である」といった既製の概念を離れて、手垢の付いていないマッサラな状態で唱題と向き合うことができるからです。
また大法師とつながっている海外の人たちは、日本の宗教文化に馴染みがないため、かえって無心に唱題と向き合うことができているようです。
今述べてきましたように、現代の日本には、人々の多くが宗教に好ましくないイメージを抱いていたり、無関心であったりという状況があります。
新宗教のほとんどが衰退傾向にあり、伝統仏教の世界では寺離れ、葬式離れ、墓離れが進んでいます。これに歯止めをかけることは難しいでしょう。
ですが、教団の勢いは衰えても本物の宗教の教えは決して消え去ることはないだろうと、わたくしは考えています。大型書店には一般人向けの仏教書がぎっしりと並んでいます。宗教の組織を離れて仏教の教えに救いを求める人は少なからずいます。
わたくし自身、教員として、夫として、また父親として多くの悩みや苦しみを経験し、それを超えるために仏教の世界を彷徨(さまよ)って来ました。そして最終的に出会ったのが唱題です。
唱題はわたくしにとって、嵐の闇夜を照らす灯台の光となりました。いずれ、この光に出会うまでの体験も記していきたいと思っています。
次回は「なぜ私が大法上人のもとで唱題をしているのか」について記すことにいたします。