人々が宗教から離れていく時代の中で その1

大法上人より紹介に与(あず)かりました小島弘之です。現在63歳です。61歳まで高校の教員を本業とする傍ら仏教を学んできました。
大法師がお書きくださった紹介文を読んで、自分が立派な僧侶に見えてきました。ですが実際は、歳を取ってはいるものの、妻によく叱られて日々を過ごしている未熟な僧侶です。

ということで、お説教めいたものではなく(僧侶のヘタなお説教は眠くなりますよね)、失敗も含めてわたくしの修行体験を語り、唱題のなかで気づいたこと、考えたことなどにも触れ、エッセイ風に大法師の指導されている唱題を紹介してまいりたいと思います。

唱題はシンプルですがとても深いものです。心を変容させる大きな力を秘めています。このことを皆さまにお伝えできればと思います。
肩肘張らず、皆さまにお話するような筆致で連載をしていくつもりです。楽しんで読んでいただけましたら嬉しいです。

皆さまご承知のとおり「南無妙法蓮華経」とお題目を唱える唱題は仏教の修行法です。要唱寺では「唱題プラクティス」と言っていますが、これは仏教の世界で唱えられてきた伝統的な「唱題」と異なるものではありません。大法上人は海外の人たちに唱題を分かりやすく伝えるために「プラクティス(実践)」という語を付しています

ですが大法上人のもとで唱題プラクティスに励んでいる皆さまの多くは、仏教の修行をしているという認識は希薄なのではないでしょうか。「わたしは仏教を信心している」という明確な自覚をもって唱題をしている人は少ない気がします。
このように書くと、わたくしは仏教僧ですので、「それでは困ります」と言うのだろうと思われるかもしれません。ですが決してそのようなことはありません。むしろそれは好ましいことであると思っています。

唱題によって安らぎを得ているわたくしの知人が、友人から悩みを打ち明けられたとき、「一緒に南無妙法蓮華経を唱えてみない」と誘うと、こんな応えが返ってきたといいます。
「それって宗教でしょ。ゴメン。宗教は、ちょっと敬遠したいな」
現代の日本人の多くは宗教に次のようなイメージを抱いているようです。
怪しい、非科学的、洗脳されるのでは、高額なお金を取られそう、反社会的な行為を強いられるかもしれない….。

一方、既成仏教の一般寺院は救いを求めて訪ねる宗教施設というより葬儀、法要を依頼する儀礼の場と捉えられているようです。
かつて、地下サリン事件に加わった一人のオウム信者は、「なぜ伝統仏教の寺院ではなくオウム真理教に救いを求めたのか」という問いに対して「お寺は街の風景に過ぎなかった」と答えています。

「新宗教は怪しい。伝統仏教は無力」。多くの現代人は、救いに関してこのように感じているようです。

つづく