死後観が多様化している中で

死後残るものは何もないと考えている僧侶に、わたしはなぜ仏式の葬儀を営むのかと訊いてみたことがあります。その答えは、グリーフケア(遺族の悲しみを癒すこと)のためというものでした。

その無霊魂論者の僧侶に、夫を亡くした老女が、葬儀で読経してもらった時のことです。老女は、ハンカチで目頭を押さえながら僧侶に感謝の思いを告げ、質問をしました。

「ご住職、夫を善い世界に送っていただき本当にありがとうございます。霊魂は不滅なんですよね」

この言葉に「おばあちゃん、霊魂とか死後の世界なんてものはないのですよ」と僧侶が答えたのかというと、そのようなことはありませんでした。僧侶は「そうです。供養ができてよかったですね」とのみ答えていました。

老女の「夫はきっとあの世で生きている」という思いを覆す必要はないと考えたのでしょう。

わたしは、無霊魂論者の僧侶は、檀信徒に率直にそのこと語ってもよいのではないかと考えています。そのうえで遺族のグリーフケアを行えばよいのではないでしょうか。その方が本心を隠すよりもスッキリとするのではないかと思うのですが。

いつの時代にも人は死の儀礼と文化を持っていました。今という時代はその儀礼と文化の転換期であるようです。

東北大学大学院教授の佐藤弘夫氏は、実際に多くの寺院を訪ね歩き、人々から話を聴き『人は死んだらどこへ行けばいいのか―現代の彼岸を歩く―』(2021年・興山舎刊)を著しました。同書にはこんな記述があります

「今日の日本がまさしく百年単位で起こる死生観の大転換のさなかにあることを実感します」

さらに佐藤教授は、「家の墓という制度が大きく形を変えようとしている」と述べた上で、つぎのようにいいます。

「私がより深刻な問題と考えているのは、葬儀と儀礼のレベルの変容に止まらず、その背後にある死をめぐる観念そのものが大きな転換期にさしかかっているようにみえることです」

わたしが取り組んできた心霊研究というのは変わり者のすることだと思われてきましたが、近年は科学者による臨死体験、前世退行催眠、再生(生まれ変わり)などに関する真摯な研究が世に出て、様相が変わりつつあります。

佐藤教授は祖霊を感じて生きる文化が消えていくことに焦点をあてていますが、一方では若者を中心とした人たちのスピリチュアルな世界(なかには相当怪しいものもりますが)への関心も深まっています。

まさに現代日本人の死生観は歴史的な転換期を迎えているといってよいようです。

これからの時代、葬儀の在り方は大きな変貌を遂げることでしょう。特に都心部では、葬儀に僧侶を呼び、読経してもらう必要はないと考えている人が増えています。死後は無となると考えている人たちの中は、仏式の供養は単なる形式的なもので、そこにお金をかける必要はないと考えている人が多いのでしょう。その数はコロナ禍で加速しています。コロナが収束したとしても、元のようには戻らないでしょう。

一方、死後も残る意識はあるのだろうと感じるスピリチュアルな感性を持った人たちは、あの世に赴いた人を供養することの大切さを感じているようです。

「霊魂があるのかどうかよくわからないけれど、昔からの慣習だからお坊さんを呼ぼう」と、あいまいさの中で仏式の葬儀を営む人の数はこれから減少していくのではないでしょうか。

これからの時代の葬儀は、霊魂を認めない人の無宗教葬と、霊魂を感じる人が故人の冥福(死後の幸福)を祈る、真に宗教性のある葬儀に二極化していく予感がします。

宗教色のない「故人とのお別れ会」や直葬(死後、火葬場に直行し遺体を荼毘に付すこと)が増加しているというのが現実です。また、霊的な世界を感じ、その世界に関心を寄せる人たちが増えているというのも現実であるのです。

死後観が大きく揺らいでいる時代の中で、わたしは、肉体は洋服のようなもので、それを脱ぎ去ったあとも、たましいは存続するといった感覚を持って生きてきました

わたしは法要を単なる儀式、作法とは捉えていません。それを霊魂の救済事業、言い換えれば、たましいの供養であると考えているのです。

霊魂の置かれている状況を明確に把握し、本気で霊魂の救済にあたり、唱題の功徳力によって霊魂を仏の世界へと導ける僧侶。きっとそのような僧侶がいるはずだとわたしは思ってきました。そしてそのような僧侶と出会い、その僧侶のもとで修行したいと長年願ってきました。ですが出会いはなく、そのことをわたしは半ば諦めていました。

ところが事態は一変したのです。

要唱寺に通いはじめて間もなく、わたしは大法上人から「要唱寺が目指し行う供養」というタイトルのリーフレットを受け取りました。驚きました。そこには大法師の行う供養が、まさにわたしの求めていた霊魂の救済事業であることが平易な言葉で記されていたのです。ようやく、わたしは真にたましいの供養ができる僧侶に出会うことができたのでした。

※「要唱寺が目指し行う供養」 https://yousyouzi.net/memorial

大法上人の弟子として供養の場に同席させていただき、大法師の「たましいの供養」がそのままグリーフケアにもなっていることを実感しました。

供養の後、大法師は、読経と祈りで故人のたましいが清らかでとらわれのない意識へと変化したことを参列者に告げます。さらには参列者の祈りが亡き人に届いていることも話します。そのことが参列者にとって大いなる癒しと安らぎになっていることを感じました。

これは、まさにわたしが理想とする法要そのものでした。

わたしは、要唱寺で唱題修行を続け、供養の読経、唱題をしていると、供養している霊の状態がわが身に映り、霊魂が浄化していくことが感じられるようになってきました。それは大法師の足元にも及ばない未熟なものですが、この変化は、わたしにとって大きな喜びです。

誤解のないように申し添えておきますが、これはいわゆる霊感によるものではありません。わたしに霊媒としての能力が芽生えたといったようなことでは決してありません。それは妙法(宇宙を貫く真理)の大いなる力によるものです。

これは僧侶にしか体験し得ないことではありません。全身全霊の唱題を継続し、唱題が深まることによって誰にでも体験できる可能性があることなのです。

詳しいことは、回を改めてお伝えすることにいたしましょう。