大法上人と初めてお会いしたのは、令和元年、師走の11日。場所は六本木、妙善寺の唱題プラクティスの会場でしでした。
年が明けて令和2年の1月3日
大法師は、わたしに「寒修行をしてみないか」と声をかけてくださいました。これは酷寒の時期、集中してお題目を唱え抜く修行です。わたしは、この年の正月から2月末にかけて頻繁に要唱寺に参じて唱題をすることとなりました。
横浜市の自宅から埼玉県行田市の要唱寺までは往復5時間かかります。
行き帰りの湘南新宿ラインの車中では、あたりまえのことですが朗々とお題目を唱えることはでません。かといって小声で唇を動かして南無妙法蓮華経と唱えれば、近くにいる人から危ないおじさんと思われるのは間違いありません(合掌して唱えたら、さらに危なさは増すでしょう(笑))。
ですが無為な時を過ごすのは、もったいないことです。そこで車中では、心の中でお題目を唱えたり、法華経を読んだりしていました(実はうつらうつらと気持ちよく船をこいでいることもありました。修行者失格ですね)。
ちなみに法華経は妙法蓮華経という経典の題名の略称です。
南無妙法蓮華経は、「妙法蓮華経に対して南無します」という意味です。南無は、いのちをかけて信じ、身命を投げ出して、その教えに従うことを意味します。
要唱寺からの帰宅は遅くなることもしばしば。夜の下忍上分のバス停で、時間通りに来ないバスを、コートの襟を合わせて寒さに震えながら待っていました。この時、あらためて「修行をしているのだなあ」と実感しました。
大法上人の唱題に接してまず驚いたのは、声調や声の大小などが変化することでした。
唱題の声は、ときには天女のように澄んだ優しい声となり、明王のような力強い声となり、あるいは子供のような無邪気な声とり、老人のようなしわがれた声となり…と変わるのです。その時どきで表情が変貌することもあります。合掌した手がスッと頭上に上がって左右に開かれていくといった動きが生じることもあります。
わたしは十数年間、お題目を唱えてきましたが、自身の声や姿が変化することは、まったくありませんでした。多くの僧侶や信徒といっしょに唱題をしてきましたが、お題目の声や唱える姿が変化する人も見たことがありません。
大法上人のお題目は、唱題の本道から逸脱した異端のお題目なのではないか。そのように見なす人もいるでしょう。長年、旧来のお題目を唱えてきた人のなかには、これを受け入れ難いものであると感じる人もいることでしょう。
ですがわたしは、驚きはしましたが、大法上人の唱題にむしろ感動を覚え、心惹かれました。大法師の唱題の変化は、全身全霊の唱題が真に深まったときに、はじめてもたらされるものなのではないか。そのように感じたのです。その後、それは極めて深遠な意味がある、ということが分かってゆくのです。
大法師の唱題は、合掌に始まり合掌に終わります。師の基本となる唱題の声は、迷いのない落ち着いたものです。
唱題時の変化は意図、操作されたものではまったくありません。かといって霊の憑依による変容といったものでもありません。わたしには心霊研究の経験がありますので、このことがよくわかります。
霊媒に霊が憑依すると、トランス状態(忘我の状態)となり自己の意識は希薄となります。
いっぽう大法師の唱題時の意識は常に清明です。澄んだ意識で自己を観察しているのです。
憑依された霊媒は、霊が抜けた後も、ぼ―っとして平常時の意識に戻るのにしばし時間を要します。ですが大法師の場合は、そもそも霊を身の内に招いているわけではないので、意識はいつも明晰で澄んでいます。
ではいったいこの唱題時の変化は何によってもたらされるのでしょうか。「それは仏法の持っている大いなる力によるものなのです」と大法師は言われます。
仏法とは何か。それは「あらゆるいのち、存在、現象を、そのものたらしめているは働き・力」です。これは宇宙を貫く根源の法則と表現することもできます。
仏法は妙法と呼ばれることもあります。
この仏法が心身に現実のものとして現れ、そのことによって声や動きがダイナミックに変化するのが大法上人の唱題であるのです。
仏法は妙法と呼ばれることもあると記しましたが、妙法は妙法蓮華経五字の略称です。
仏法とはすなわち妙法蓮華経の五字であり南無妙法蓮華経の七字であるというのが日蓮聖人の教えです。
日蓮聖人の教えによれば、妙法蓮華経の五字は、経文の単なる題目(タイトル)ではありません。南無妙法蓮華経の七字は、ただの唱え言葉ではありません。この五字・七字は、万物を生かす根源の法であるのです。唱題とは、この根源の法と一つになることなのです。
大法師が全身全霊で南無妙法蓮華経を唱えるとき、師は南無妙法蓮華経と一如(一つ)となり、師の内から妙法の働きが、実際におのずと涌き出てくるのです。
妙法の働きが体現されるのは、禅、その他の瞑想ではありえないことです。
日蓮聖人は、妙法蓮華経は明鏡(くもりなき鏡)であるとも言われました。大法上人が唱題して南無妙法蓮華経と一如になるとき、妙法の力により、師の内面の明鏡に如来や天人、亡き人のたましい等の姿が映じてきます。
このことによって、たましいの供養の際には、遺族は故人の御霊(みたま)の状態を、大法師の唱題の声や姿を通して明確に知ることができるのです。さらには、南無妙法蓮華経と一如となった大法師によって、故人の御霊は安らぎを得て浄土へと導かれていくのです。
以上のことは,日蓮聖人の説かれた一念三千の法門を知ると、理解が深まるのですが、このことはいずれ記したいと思います。大法上人の唱題の特質について、次回以降もわたしの体験を踏まえて述べてまいります。連載一回分のスペースでは、とても収め切ることはできません。
さて、ここまで大法師の唱題がどのようなものであるのかについて、わたしが頭脳で理解している範囲で語ってきました。
ですが、本当に大法師の唱題を身に付けるためには、頭を捨てなければなりません。知性が唱題修行の妨げとなることもあります。
わたしは、寒修行の期間、頭を捨てて唱題をする修行をしました。このことについても回を改めて記すことにいたしましょう。
☆ 私 小島 弘之 は、このたびブログをはじめました。こちらもご覧いただければ幸いです。