前回に続いて、大法師とはじめて出会ったときのことから述べることにいたします。
唱題プラクティスの開始時間よりだいぶ早く妙善寺に到着したわたしは、大法上人が本堂に入堂するのを待っていました。そこには僧衣をまとったサポート役の僧侶、I 上人がすでにいらっしゃいました。わたしが I 師と話をしていると、綿パンにセーター姿で斉藤大法上人が入って来られました。服装がカジュアルで少し驚きました。ですがその風貌は知的で、深い修行を積んできたことが伺われました。
大法上人の唱題をはじめて聞いたとき、「同じ南無妙法蓮華経でありながら、いままでにまったく聞いたことがない南無妙法蓮華経だ」と感じました。それは「声が渋い」とか「朗々としている」といった次元のものではありません。深いところから涌き起ってくる南無妙法蓮華経と表現したらよいのでしょうか。わたしはそこに、いのちの力を感じました。「わたしもこのようなお題目を唱えたい」。そう思いました(思ってすぐに同じように唱えられるものではなかったのですが)。
まず大法上人に指導されたこと。それは、遠慮せずに大きな声を出して、お題目と一つになるように全身全霊で唱題するということでした。『鬼滅の刃』の登場人物は「全集中の呼吸法」を行いましたが、わたしは「全集中の唱題」を行うこととなりました。「とにかく理屈は置いておいて、まず素直に全面的に師の指導に従ってみよう」。そう思いました。
指導されたとおり、身体(からだ)全体でお題目を唱えてみますと、腹の底から涌きあがってくる力を実感されます。それは感動的な体験でした。たましいの深部にある煩悩の闇のさらに奥から、大いなる仏のいのちが現れてくる。そんな感じの唱題体験です。これは「自己の内なる仏性(仏としての本性)への目覚め」と表現してよいかもしれません。
この体験をした直後、わたしは大法師のもとで唱題修行をしようと心に決めました。
ここで付け加えておきたいことがあります。それは、この時わたしが唱えたお題目は、今振り返ってみると未熟なものであったということです。さらに言えば、今わたしが唱えているお題目も、未来のわたしから見れば未熟なものに映ることでしょう。
大法上人の指導によって唱えるお題目は日々変わっていきます。昨日の唱題より今日の唱題。今日の唱題より明日の唱題というように、時には停滞することがあっても、変化、成長していくのが師の指導する唱題行であるのです。
仏の世界に向かって日々唱題をしていく道程(みちのり)。この道程では、つまずいたり転んだりすることもありますが、この道を歩んでいくことを何よりも有り難く尊いことであるとわたしは感じています。それはたましいの輝きを少しずつ増していく道です。
「お題目には不可思議な力があります。唱えるとお釈迦さまや日蓮聖人のお導きを受け、そのご加護を受けることができるのです」。そのように言う人がいます。わたしはこれを否定しません。ですが大法師がこのように言われたなら、師の指導を受けることはなかったでしょう。
『法華経』は誰もが仏になる可能性を持っていて、これに例外はないといいます。この可能性をどこまでも信じて唱えていくのが大法師のお題目であると、わたしは感じています。
外なる力に頼るお題目ではなく、内なる仏としての本性に目覚めていくお題目。それこそが日蓮聖人の唱えたお題目であったのではないかとわたしは考えてきました。大法師のお題目は、まさにそのようなお題目であるというのがわたしの実感です。
今、わたしは出会いの不思議さ、すばらしさといったものを感じています。
おそらく大法師の唱題の仕方を解説した文章を読んで唱題しても、先に述べたような体験をすることなかったでしょう。YouTubeで大法師の唱題を視聴したとしても、実際に師と会った時と同じような感動を味わうことはなかったと思います。それは、わたしのたましいが大法師のたましいに直に触れて、はじめて得ることができた感動であった気がします。
現在、大法師からZoom上で唱題の指導を受け、修行が深まっていくことを実感しています。これはこれでとても有り難いことです。ですが、さらに いのちといのちが直接向き合うことによってしか起こりえない目覚めというものがあるのではないかと感じています。
なぜ大法上人を師として唱題することとなったのか。理由をまとめれば「自己のたましいが癒され、輝きを増して成長していくことが実感されたから」ということになります。
大法師と妙善寺ではじめてお会いしたのは令和元年12月11日。指導いただいてからまだ日は浅く、わたしの唱題は未熟です。ようやくこれから僧侶としての本格的な唱題修行がはじまるのだろうと思います。
つづく