今回は、比較的わかりやすい説話「キサー・ゴ―タミー」のお話しを基にわたしたちCEPが創作した動画を紹介したいと思います。*動画については、下記リンクからYouTubeでご覧いただけます。
人々が宗教から離れていく時代の中で その1
大法上人より紹介に与(あず)かりました小島弘之です。現在63歳です。61歳まで高校の教員を本業とする傍ら仏教を学んできました。
大法師がお書きくださった紹介文を読んで、自分が立派な僧侶に見えてきました。ですが実際は、歳を取ってはいるものの、妻によく叱られて日々を過ごしている未熟な僧侶です。
ということで、お説教めいたものではなく(僧侶のヘタなお説教は眠くなりますよね)、失敗も含めてわたくしの修行体験を語り、唱題のなかで気づいたこと、考えたことなどにも触れ、エッセイ風に大法師の指導されている唱題を紹介してまいりたいと思います。
唱題はシンプルですがとても深いものです。心を変容させる大きな力を秘めています。このことを皆さまにお伝えできればと思います。
肩肘張らず、皆さまにお話するような筆致で連載をしていくつもりです。楽しんで読んでいただけましたら嬉しいです。
皆さまご承知のとおり「南無妙法蓮華経」とお題目を唱える唱題は仏教の修行法です。要唱寺では「唱題プラクティス」と言っていますが、これは仏教の世界で唱えられてきた伝統的な「唱題」と異なるものではありません。大法上人は海外の人たちに唱題を分かりやすく伝えるために「プラクティス(実践)」という語を付しています
ですが大法上人のもとで唱題プラクティスに励んでいる皆さまの多くは、仏教の修行をしているという認識は希薄なのではないでしょうか。「わたしは仏教を信心している」という明確な自覚をもって唱題をしている人は少ない気がします。
このように書くと、わたくしは仏教僧ですので、「それでは困ります」と言うのだろうと思われるかもしれません。ですが決してそのようなことはありません。むしろそれは好ましいことであると思っています。
唱題によって安らぎを得ているわたくしの知人が、友人から悩みを打ち明けられたとき、「一緒に南無妙法蓮華経を唱えてみない」と誘うと、こんな応えが返ってきたといいます。
「それって宗教でしょ。ゴメン。宗教は、ちょっと敬遠したいな」
現代の日本人の多くは宗教に次のようなイメージを抱いているようです。
怪しい、非科学的、洗脳されるのでは、高額なお金を取られそう、反社会的な行為を強いられるかもしれない….。
一方、既成仏教の一般寺院は救いを求めて訪ねる宗教施設というより葬儀、法要を依頼する儀礼の場と捉えられているようです。
かつて、地下サリン事件に加わった一人のオウム信者は、「なぜ伝統仏教の寺院ではなくオウム真理教に救いを求めたのか」という問いに対して「お寺は街の風景に過ぎなかった」と答えています。
「新宗教は怪しい。伝統仏教は無力」。多くの現代人は、救いに関してこのように感じているようです。
つづく
弘教の僧 誕生す
こちらは、このたび4月15日~5月19日の身延山信行道場の修行を貫徹して正式に日蓮宗僧侶と認定された、私大法の修行上の弟子、小島 弘之(こうし) のコーナー としてこの度オープンしました。
その導入としてまた紹介として今回わたしが少々述べさせていただきます。第2回目からは、弘之 に文章を書いてもらって、彼の意気込みや体験談そして仏法を大いに語ってもらいたいと思っています。
物事が大きく展開する時というものがあります。コロナ感染が、日本や世界各地に広がる直前令和元年の12月半ば、燃えるような思いを抱いて此の要唱寺に訪れた一人の強者(つわもの)がありました。
『ほんものの唱題を是非修得したい!!!』
有難いと言うほかありません。「今の時代には希なる久遠の仏陀直授の御題目を保持するものの、それを世に弘めるには、ひ弱で臆病で何かと力不足な私を、仏さまが、憐れんで助っ人を遣わしてくださったに違いない」と直感しました。名前もそれを物語っているではありませんか。弘之(こうし)=「之(本化妙行の題目)を弘める」
ところが、それからが大変。いよいよパンデミックが起こり、御題目をまともに修行することもままならない日々が続きました。彼は、唱題に関する書( 例)『南無妙法蓮華経のこころ』など )の著者として知られる横浜の瀬野 泰光 上人様の(宗門届け出上の)弟子であり、令和二年春の身延山信行道場入場も予定されていました。それも延期となってしまったのです。そのような困難な状況を乗り越え、今年晴れて(とは言っても感染に相当気をつかいながら)入場・成満しました。 https://yousyouzi.net/archives/2097
思うにこれらの困難もきっとこれからの弘教にとって必要な体験なのでしょう。
それは、彼個人のためでも私のためでも此の寺のためでもありません。仏法が此の世に真に現れ、日本国、世界中の人々が自らの本源に目覚め、真の平和が実現されるためです。
困難は、簡単には去りません。まだ当分パンデミックは、続くことでしょう。私と同じ六十三歳、弘之(こうし)には、居すべき寺もありません。しかし、それらをものともせず弘教に邁進することでしょう。何故なら法のための行動こそが真の寺院なのですから・・・。その精進に期待します。
獅子吼せよ
【死との向き合いと受容】その3
【死との向き合いと受容 】その2
人間にとって死の問題は、死それ自体ではなく「死の恐れ」という感情の問題である。
他国より来世を信じない日本人 「死への不安」も強い傾向と帯津医師が解説https://dot.asahi.com/wa/2021011500040.html?fbclid=IwAR0lKh3t5GKZsIVKecN91jOf4EtX-GABR83ilx4O6vVGzOXuXVp9jGyeGN0