【死との向き合いと受容】その4

このテーマについて仏教では、何と説かれているか?
四諦の法門の中などに詳しく説かれています。四諦については、いずれ解説したいと思います。

今回は、比較的わかりやすい説話「キサー・ゴ―タミー」のお話しを基にわたしたちCEPが創作した動画を紹介したいと思います。*動画については、​下記リンクからYouTubeでご覧いただけます。

インド、お釈迦様がいらした時代のこと。キサー・ゴータミーの幼子は、重い病に罹り死亡してしまいます。しかし、ゴータミーは、そのことを受け入れることが出来ず、半狂乱となって街中を医師や薬を求めてかけまわります。ついにお釈迦様に出会うのですが、言葉で説いてもわからない状態の母が、自ら気づくためにお釈迦様は、想像もつかないような方法を教えました。
これは、極端な例をもって死の受容の困難さと気づきのプロセスの大切さを伝えています。でも程度の差こそあれ多くの人が共有する問題であり過程ではないでしょうか?
※CEPとは、Cambodia Empowerment Project カンボジア・エンパワーメント・プロジェクト といって、カンボジアにおいて「仏教の本質を現代にやさしくひもとくことにより、慈悲と智慧を備えた人間を育成し、自立した相互扶助の社会作りを支援する」ことを目的として2014年に数人の人たちと共に立ち上げたNGOです。
CEP ホームページ https://www.cep-ngo.net/
*動画については、​下記リンクからYouTubeでご覧いただけます。

人々が宗教から離れていく時代の中で その1

大法上人より紹介に与(あず)かりました小島弘之です。現在63歳です。61歳まで高校の教員を本業とする傍ら仏教を学んできました。
大法師がお書きくださった紹介文を読んで、自分が立派な僧侶に見えてきました。ですが実際は、歳を取ってはいるものの、妻によく叱られて日々を過ごしている未熟な僧侶です。

ということで、お説教めいたものではなく(僧侶のヘタなお説教は眠くなりますよね)、失敗も含めてわたくしの修行体験を語り、唱題のなかで気づいたこと、考えたことなどにも触れ、エッセイ風に大法師の指導されている唱題を紹介してまいりたいと思います。

唱題はシンプルですがとても深いものです。心を変容させる大きな力を秘めています。このことを皆さまにお伝えできればと思います。
肩肘張らず、皆さまにお話するような筆致で連載をしていくつもりです。楽しんで読んでいただけましたら嬉しいです。

皆さまご承知のとおり「南無妙法蓮華経」とお題目を唱える唱題は仏教の修行法です。要唱寺では「唱題プラクティス」と言っていますが、これは仏教の世界で唱えられてきた伝統的な「唱題」と異なるものではありません。大法上人は海外の人たちに唱題を分かりやすく伝えるために「プラクティス(実践)」という語を付しています

ですが大法上人のもとで唱題プラクティスに励んでいる皆さまの多くは、仏教の修行をしているという認識は希薄なのではないでしょうか。「わたしは仏教を信心している」という明確な自覚をもって唱題をしている人は少ない気がします。
このように書くと、わたくしは仏教僧ですので、「それでは困ります」と言うのだろうと思われるかもしれません。ですが決してそのようなことはありません。むしろそれは好ましいことであると思っています。

唱題によって安らぎを得ているわたくしの知人が、友人から悩みを打ち明けられたとき、「一緒に南無妙法蓮華経を唱えてみない」と誘うと、こんな応えが返ってきたといいます。
「それって宗教でしょ。ゴメン。宗教は、ちょっと敬遠したいな」
現代の日本人の多くは宗教に次のようなイメージを抱いているようです。
怪しい、非科学的、洗脳されるのでは、高額なお金を取られそう、反社会的な行為を強いられるかもしれない….。

一方、既成仏教の一般寺院は救いを求めて訪ねる宗教施設というより葬儀、法要を依頼する儀礼の場と捉えられているようです。
かつて、地下サリン事件に加わった一人のオウム信者は、「なぜ伝統仏教の寺院ではなくオウム真理教に救いを求めたのか」という問いに対して「お寺は街の風景に過ぎなかった」と答えています。

「新宗教は怪しい。伝統仏教は無力」。多くの現代人は、救いに関してこのように感じているようです。

つづく

弘教の僧 誕生す

こちらは、このたび4月15日~5月19日の身延山信行道場の修行を貫徹して正式に日蓮宗僧侶と認定された、私大法の修行上の弟子、小島 弘之(こうし) のコーナー としてこの度オープンしました。

その導入としてまた紹介として今回わたしが少々述べさせていただきます。第2回目からは、弘之 に文章を書いてもらって、彼の意気込みや体験談そして仏法を大いに語ってもらいたいと思っています。

物事が大きく展開するというものがあります。コロナ感染が、日本や世界各地に広がる直前令和元年の12月半ば、燃えるような思いを抱いて此の要唱寺に訪れた一人の強者(つわもの)がありました。

『ほんものの唱題を是非修得したい!!!』

有難いと言うほかありません。「今の時代には希なる久遠の仏陀直授の御題目を保持するものの、それを世に弘めるには、ひ弱で臆病で何かと力不足な私を、仏さまが、憐れんで助っ人を遣わしてくださったに違いない」と直感しました。名前もそれを物語っているではありませんか。弘之(こうし)=「(本化妙行の題目)をめる」

ところが、それからが大変。いよいよパンデミックが起こり、御題目をまともに修行することもままならない日々が続きました。彼は、唱題に関する書( 例)『南無妙法蓮華経のこころ』など )の著者として知られる横浜の瀬野 泰光 上人様の(宗門届け出上の)弟子であり、令和二年春の身延山信行道場入場も予定されていました。それも延期となってしまったのです。そのような困難な状況を乗り越え、今年晴れて(とは言っても感染に相当気をつかいながら)入場・成満しました。 https://yousyouzi.net/archives/2097

思うにこれらの困難もきっとこれからの弘教にとって必要な体験なのでしょう。

それは、彼個人のためでも私のためでも此の寺のためでもありません。仏法が此の世に真に現れ、日本国、世界中の人々が自らの本源に目覚め、真の平和が実現されるためです。

困難は、簡単には去りません。まだ当分パンデミックは、続くことでしょう。私と同じ六十三歳、弘之(こうし)には、居すべき寺もありません。しかし、それらをものともせず弘教に邁進することでしょう。何故なら法のための行動こそが真の寺院なのですから・・・。その精進に期待します。

獅子吼せよ

 

 

 

 

 

 

 

【死との向き合いと受容】その3

<プエブロ・インディアンの詩>
今日は死ぬのにもってこいの日だ
生きているものすべてが、私と呼吸を合わせている
すべての声が、私の中で呼吸している
すべての美が、私の目の中で休もうとしてやってきた
あらゆるわるい考えは、私から立ち去っていった
今日は死ぬのにもってこいの日だ
私の土地は、私を静かに取り巻いている
私の畑は、もうたがやされることはない
私の家は、笑いで満ちている
子どもたちは、家にかえってきた
そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ
死をこんなに明るく捉えられる人たちが、いらしたのですね。正直驚きました。これでは、亡くなって「ご愁傷様です」と言う訳にはいきません(微笑)。
こんな感覚で生きられたなら、どんなに平安で幸せなことでしょう。と思いつつも今の日本人には、遠い世界かな・・・・
さて、
これほど美しく前向きに捉えることのできる理由は、何でしょうか?
それは、人間どうしのつながりだけでなく、自然、世界、宇宙、つまり我々を取り巻く大いなるものとつながり生かされている感覚を持てることによると言われています。
実は、自然と大いなる仏さまに抱かれて生きている、という文化は、かつて日本にもあったのです。詳細については、またいずれかの時に・・・。
近代の科学と科学技術と産業の発展(飛躍的拡大)は、私たちの生活を物質的に豊かに快適にしました。その代わり自然もかつての文化や宗教も縮小してゆきました。その役割をほぼ終えたかのようにさえ思われたことがありました。
しかし、地球環境問題や大量破壊兵器の開発・使用など文明の矛盾や負の結果も無視できないほど大きくなりました。 医学の発展は、少なからぬ病気の当面の治癒を可能としましたが、根本的な治癒をもたらしたかどうは疑わしい(新たな病気が、起こって絶えることがない)ですし、病、老いや死の不安そのものを取り除くものではありません。
そこでふたたびかつての(精神)文化が、見直されようとしています。迷信とか古臭いなどと揶揄されていた祈りや瞑想も科学研究が可能となり、ふたたび意味を見出そうとしています。また時代の変遷も含め世界中の文化・文明の情報については、どこに居ても瞬時に得られるようになりました。
さあ、そこで、これまでの正も負もどちらの経験もいかして
『ほんとうの幸せとは何か?』
ということを深く広く長い目で考え導き出せる(すべき)時代が、これからこそ、到来するであろうことを感じています。
自然、空の画像のようです
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【死との向き合いと受容 】その2

人間にとって死の問題は、死それ自体ではなく「死の恐れ」という感情の問題である。

他国より来世を信じない日本人 「死への不安」も強い傾向と帯津医師が解説https://dot.asahi.com/wa/2021011500040.html?fbclid=IwAR0lKh3t5GKZsIVKecN91jOf4EtX-GABR83ilx4O6vVGzOXuXVp9jGyeGN0

帯津先生とは、医師らの研究会や科学者の集まりなどで何度かお会いしたことが、あります。私が発表した唱題プラクティスもご覧いただきました。先生の病院が、私の処からさほど遠くないのでいつか機会があったら病院の見学もさせていただきたいと思っています。先生が、ある処で「最高の癒しの場は、仏の浄土であろう」とおっしゃっておられましたが、わたしも体験的にその通りだと思います。肉体の病、心の病、魂の病を同時に癒してくれます。特に魂―心の深いレベルの癒しは、すべての根っことして大切。
かつて国際生命情報科学会の合宿の際に京都大学こころの未来研究センター カール・ベッカー教授の講演を拝聴させていただきました。その際先生は、以下のような要旨でお話しされ、特に日本の四十九日の法要の大切さについて力説されていたと記憶しています。
「目で見える物しか存在しないとか、死んだら人間は完全に消えてしまうとか、神も仏も霊魂も無い、というような物の見方は、世界のあらゆる時代や文明を遡って探してみても皆無に等しい」⇒現代の日本くらいなものだ、ということです。ありますよ。日本だって神仏や霊を信じるということ。でも総じて希薄だと思います。
日本の四十九日の一週間ごとの法要は、素晴らしいグリーフケアのシステムなのに何故日本人は、そうした自国の文化をもっと大切にしないのだろう、というようなことをおっしゃっていました。
そこに参加していた日本人の多くが、先生のそのお話しを聞いて皆驚いた様子(はじめて聞いたΣ(・□・;))だったのが印象的でした。現代の日本の状態を象徴しています。
ほんとうに法要は大切です。
死者と遺された方々の魂や心を深く(別離の悲しみやカルマに至るまで)癒すために・・・。ほんらい僧侶の読経は、仏陀の覚りの言葉のたましいを体現することにより、大いなる癒しの場をつくりだしていたのです。
という私もかつて神仏まして霊の存在など全くと言って良いほど信じていませんでした。信じる、というより体験的に知るようになったのは、仏教の修行に入ってからです。そのことについては、またいつかお話しできたらと思います。