たましいの供養

リーフレット『要唱寺の目指し行う供養』に、大法上人はつぎのように記されています。

修行を重ねた結果、亡き御霊の状態が感じられるようになり、読経や祈りを通して御霊が、清らかでとらわれのない意識へと変化し、成仏を象徴する蓮華台に乗り浄土へとお導きすることが出来るようになりました。

さらに参加された皆様方の心からの祈りが、亡き方にどのように届いているかもわかるようになりました。

大法師の供養は、まさに「たましいの供養」ですが、これを「単なる思い込みだろう」と考える人もあるでしょう。ですがわたしは真実であると実感しています。

大法上人に供養を依頼した方から、次のような言葉を聞いたことがあります。

「唱題中の大法上人の声や容貌が、供養をお願いした亡き父とそっくりに変化し、本当にびっくりしました」

大法師が故人のことをまったく知らなくても、こういったことが起こります。

遺族が、大法師の唱題の声や姿を通して、故人のたましいが安らぎを得て浄土へと導かれていくことを感じ取り、故人と共に癒されていく。

そのような光景を、わたしは大法師の「たましいの供養」に同席させていただいて見てきました。

わたしの拙(つたな)い「たましいの供養」の体験を記しましょう。

令和2年の晩秋、我が家の犬(小型のパピヨンでメスです)が亡くなりました。14年間わたしたち夫婦と共に過ごしたペットでした。わたしは、妻に頼まれてその供養をすることとなりました。

ペットは、最後は苦しまずに逝ったのですが、妻はペットがあの世で迷ってはいないかと心配していました。妻の悲しみと不安の念が伝わってきたからでしょうか、「暗く重たい供養の唱題になるのではないか」といった思いが、わたしの頭をよぎりました。

実際の唱題がどうなるかはまったくわかりません。そこに自己の思いや操作が入り込む余地はないのです。わたしは全集中の唱題をしました。すると予想外のことが起こりました。唱題はすぐに明るく軽やかなものとなったのです。

ペットがあの世で元気に跳ね回っているような感じの唱題となったと、わたしは妻に告げました(唱題中は、意識がなくなっているわけではなく、清明な心で自己を観察しています)。さらにわたしは、ペットが無心に無邪気にあの世にいるのを感じましたので、そのことも妻に伝えました。

その後、「考えてみれば、そうなるはずだよね」と妻に言うと、妻は私の言葉に頷(うなず)きました。

虐待を受けて、それがトラウマとなっているペット、飼い主への情が深く、それが執着となっているペットもいます(わたしは、嫉妬という感情を持ったペット犬を知っています)。

我が家のペットは、ちょっと我儘でしたが、可愛がられて幸せな人生、いや犬生を送りました。いつも無邪気に今を生きていました。それゆえ何の迷いや執着もなく、スッと上がっていったのではないかと、わたしも妻も感じています。

日常のわたしは、「なんで歯磨きのチューブのフタを開けっぱなしにしておくの」などと妻から叱られるのはいつものこと。妻からの信頼を得ていません。ですが妻は、わたしが行なった親族への供養にも接して、要唱寺の「たましいの供養」は信頼しているようです。

大法師は、『要唱寺が目指し行う供養』に、亡き御霊の状態を感じ取り、浄土に導くことが出来ることについて、つぎのように記されています。

それは私の個人的な念力などによるものではありません。仏法(ぶっぽう)が持っている大いなる力によるのです。  https://yousyouzi.net/memorial

わたしは、このことは「たましいの供養」における大変に重要なポイントであると思っています。

大法師とはじめてお会いする前に既にわたしは十数年間、唱題修行を続けてきていました。

その間、霊を明瞭に感じたことはありませんでした。要唱寺で修行をはじめてからさまざまなことがあり、半年ほどした頃から徐々に感じられるようになったのです。唱題に終着点はありません。これからも、どこまでも深まっていくことでしょう。

次回は、わたしの唱題体験と共に、大法師の言われる「仏法が持っている大いなる力」について触れることにいたします。

 

死後観が多様化している中で

死後残るものは何もないと考えている僧侶に、わたしはなぜ仏式の葬儀を営むのかと訊いてみたことがあります。その答えは、グリーフケア(遺族の悲しみを癒すこと)のためというものでした。

その無霊魂論者の僧侶に、夫を亡くした老女が、葬儀で読経してもらった時のことです。老女は、ハンカチで目頭を押さえながら僧侶に感謝の思いを告げ、質問をしました。

「ご住職、夫を善い世界に送っていただき本当にありがとうございます。霊魂は不滅なんですよね」

この言葉に「おばあちゃん、霊魂とか死後の世界なんてものはないのですよ」と僧侶が答えたのかというと、そのようなことはありませんでした。僧侶は「そうです。供養ができてよかったですね」とのみ答えていました。

老女の「夫はきっとあの世で生きている」という思いを覆す必要はないと考えたのでしょう。

わたしは、無霊魂論者の僧侶は、檀信徒に率直にそのこと語ってもよいのではないかと考えています。そのうえで遺族のグリーフケアを行えばよいのではないでしょうか。その方が本心を隠すよりもスッキリとするのではないかと思うのですが。

いつの時代にも人は死の儀礼と文化を持っていました。今という時代はその儀礼と文化の転換期であるようです。

東北大学大学院教授の佐藤弘夫氏は、実際に多くの寺院を訪ね歩き、人々から話を聴き『人は死んだらどこへ行けばいいのか―現代の彼岸を歩く―』(2021年・興山舎刊)を著しました。同書にはこんな記述があります

「今日の日本がまさしく百年単位で起こる死生観の大転換のさなかにあることを実感します」

さらに佐藤教授は、「家の墓という制度が大きく形を変えようとしている」と述べた上で、つぎのようにいいます。

「私がより深刻な問題と考えているのは、葬儀と儀礼のレベルの変容に止まらず、その背後にある死をめぐる観念そのものが大きな転換期にさしかかっているようにみえることです」

わたしが取り組んできた心霊研究というのは変わり者のすることだと思われてきましたが、近年は科学者による臨死体験、前世退行催眠、再生(生まれ変わり)などに関する真摯な研究が世に出て、様相が変わりつつあります。

佐藤教授は祖霊を感じて生きる文化が消えていくことに焦点をあてていますが、一方では若者を中心とした人たちのスピリチュアルな世界(なかには相当怪しいものもりますが)への関心も深まっています。

まさに現代日本人の死生観は歴史的な転換期を迎えているといってよいようです。

これからの時代、葬儀の在り方は大きな変貌を遂げることでしょう。特に都心部では、葬儀に僧侶を呼び、読経してもらう必要はないと考えている人が増えています。死後は無となると考えている人たちの中は、仏式の供養は単なる形式的なもので、そこにお金をかける必要はないと考えている人が多いのでしょう。その数はコロナ禍で加速しています。コロナが収束したとしても、元のようには戻らないでしょう。

一方、死後も残る意識はあるのだろうと感じるスピリチュアルな感性を持った人たちは、あの世に赴いた人を供養することの大切さを感じているようです。

「霊魂があるのかどうかよくわからないけれど、昔からの慣習だからお坊さんを呼ぼう」と、あいまいさの中で仏式の葬儀を営む人の数はこれから減少していくのではないでしょうか。

これからの時代の葬儀は、霊魂を認めない人の無宗教葬と、霊魂を感じる人が故人の冥福(死後の幸福)を祈る、真に宗教性のある葬儀に二極化していく予感がします。

宗教色のない「故人とのお別れ会」や直葬(死後、火葬場に直行し遺体を荼毘に付すこと)が増加しているというのが現実です。また、霊的な世界を感じ、その世界に関心を寄せる人たちが増えているというのも現実であるのです。

死後観が大きく揺らいでいる時代の中で、わたしは、肉体は洋服のようなもので、それを脱ぎ去ったあとも、たましいは存続するといった感覚を持って生きてきました

わたしは法要を単なる儀式、作法とは捉えていません。それを霊魂の救済事業、言い換えれば、たましいの供養であると考えているのです。

霊魂の置かれている状況を明確に把握し、本気で霊魂の救済にあたり、唱題の功徳力によって霊魂を仏の世界へと導ける僧侶。きっとそのような僧侶がいるはずだとわたしは思ってきました。そしてそのような僧侶と出会い、その僧侶のもとで修行したいと長年願ってきました。ですが出会いはなく、そのことをわたしは半ば諦めていました。

ところが事態は一変したのです。

要唱寺に通いはじめて間もなく、わたしは大法上人から「要唱寺が目指し行う供養」というタイトルのリーフレットを受け取りました。驚きました。そこには大法師の行う供養が、まさにわたしの求めていた霊魂の救済事業であることが平易な言葉で記されていたのです。ようやく、わたしは真にたましいの供養ができる僧侶に出会うことができたのでした。

※「要唱寺が目指し行う供養」 https://yousyouzi.net/memorial

大法上人の弟子として供養の場に同席させていただき、大法師の「たましいの供養」がそのままグリーフケアにもなっていることを実感しました。

供養の後、大法師は、読経と祈りで故人のたましいが清らかでとらわれのない意識へと変化したことを参列者に告げます。さらには参列者の祈りが亡き人に届いていることも話します。そのことが参列者にとって大いなる癒しと安らぎになっていることを感じました。

これは、まさにわたしが理想とする法要そのものでした。

わたしは、要唱寺で唱題修行を続け、供養の読経、唱題をしていると、供養している霊の状態がわが身に映り、霊魂が浄化していくことが感じられるようになってきました。それは大法師の足元にも及ばない未熟なものですが、この変化は、わたしにとって大きな喜びです。

誤解のないように申し添えておきますが、これはいわゆる霊感によるものではありません。わたしに霊媒としての能力が芽生えたといったようなことでは決してありません。それは妙法(宇宙を貫く真理)の大いなる力によるものです。

これは僧侶にしか体験し得ないことではありません。全身全霊の唱題を継続し、唱題が深まることによって誰にでも体験できる可能性があることなのです。

詳しいことは、回を改めてお伝えすることにいたしましょう。

 

 

 

【盂蘭盆会(うらぼんえ)~たましいの救済~】

かつて「人は、死んだらお終い。たましいなどない」と考えていた私でしたが、仏道に縁があって修行してゆくうちに死後の魂の存在や状態とそれが祈りによって良い状態(いわゆる成仏に向けて)に変化してゆくプロセスをつまびらかに体験として知ることができるようになってゆきました。単に死後を知ったというのみならず、このことは、大きな人生観の転換でもありました。
今日(8月14日)午前中、私のお寺では、Zoomを通しての「盂蘭盆の供養会」が行われました。お盆の行事の原点(根拠)とみなされている『盂蘭盆經(うらぼんきょう)』に記されている、餓鬼道の苦しみに喘ぐ亡き母を救ったお釈迦様のお弟子 目連尊者の物語は、単なる儀式というものはなく、まさに魂の救済の実践であり、その中に人生の奥深い智慧がちりばめられています。
そのこと(たましいの救済)を参加者ひとりひとりが、その人なりに実体験していただき、自らの霊性を開き、今後の人生の智慧としていただくというのが私のお寺の盂蘭盆会の趣旨です。ですから私のお寺では、祈る主人公は、参加の方々であって僧侶ではありません。僧侶は、御経を唱えて供養する専門家で、人々はそれを聴いている人などと分けたりは、しないのです。むしろ参加者こそが主人公だという考え方です。そして皆さんが、それぞれに体験し、体験を深めようとすることができるようにお手伝いする、そういう意味で寄り添いながらリードするのが、僧侶の役目であると考えています。
一例ですが、今日の盂蘭盆会では、「亡き親のために一生懸命唱えていたら、だんだん充実した唱えになり、最終的には、『人様のために愛のワークをしたい』というインスピレーションが自然と湧いてきた」という方がありました。これからそういう方向で生き活動してゆきたいとのことでした。 それを聞いてわたしは、とても嬉しくなりました。亡き方もその方(子ども)の唱えにより、苦悩から解放され平穏になってゆくさまが確認されました。

なぜ大法上人を師として唱題をすることとなったのか その3

【大法上人のもとで唱題をしたいと思ったもう一つの理由】

なぜ大法上人を師として唱題をすることとなったのか。

「理由をまとめれば、自己のたましいが癒され、輝きを増して成長していくことが実感されたから」

そのように前回記しました。

実はもう一つ、大法上人のもとで唱題修行をしようと決意した理由があるのです。しかしこのことを、今ここで記すことには少々ためらいがあります。それは、その理由というのが現代の社会のなかでコンセンサスが得られていることではないからです。ですがこのことを明らかにしておかなければ、連載を先に進めることができません。

記すことにいたしましょう。

真に霊魂を救済し得る僧侶になりたい。この願いを叶えるために大法上人の指導を受けたい」

この思いが、もう一つの理由です。

『デスノート』という漫画(死神のノートに名前を書くだけで人を殺すことができるというストーリーです)を読んでいて、正確には覚えていませんが、こんな感じのセリフに出会いました。

「死は誰にとっても平等である。死は暗黒、永遠の眠りであるから」

天国も地獄もなく、悪人も善人も死んだら永遠の眠りにつく。無に帰る。そう考えている人が現代の日本では多いようです。僧侶でも死後残るものは何もないと考えている人がいます。

日本以外の国では、仏教の僧侶は例外なく「死後の生」を認めているといっても過言ではありません。しかしわが国では、宗派によってその比率に差はあるものの、多くの僧侶が死とは無に帰ることであると考えています。僧侶が大学の仏教学部で学ぶ近代仏教学の講義は霊魂の実在を前提としていないのです。

釈尊は決して「死後の生」を否定しているわけではないのですが(詳しいことは別の機会に述べたいと思います)。

「お盆の期間は、先祖があの世から帰ってきて、わたしたちと共に家で過ごす」ということを、素朴に信じ受け入れている人が多数を占めている時代がありました。しかし今は、それは単なる習俗となっています。本気で「霊魂を救済し得る僧侶になりたい」と言うわたしのことを「前近代の遺物」と思う人は、少なからずいることでしょう。

ですが私の気持ちを受け止めてくださる方もあることと思います。霊を肌で感じる人が今の時代にもいるのです。現代日本人の死後観は単純ではありません。

わたしは十代のころから仏教と共に心霊研究、すなわち霊的世界の探訪をしてきました。

その過程で、病院にいくことをお勧めしたい、妄想の世界に生きている自称霊能者や霊媒にも少なからずお会いしました。ですが一方では、霊を感じる、まっとうな人たちとも出会い、わたしは「死後も人は生きている」ということを自明のこと認識するに至りました。

高校の教員時代には霊が視える生徒に何人も出会っています。その生徒たちは決して心を病んでいたわけではありません。彼ら、彼女たちは、わたしが心霊研究をしていることを知って、霊が視えることをそっと打ち明けてくれました。

生徒だけではありません。日常、霊を感じている校長に仕えたこともあります。

わたしは主幹教諭というポジションにいて、よく校長室に赴いていたのですが、ある日校長から「霊を感じたり霊が視えたりすることがあるんだ」という告白を受けました。その日の夜、わたしは校長の霊的体験談を飲み屋で聞くこととなりました。

皆さまの周りに、いや皆さまのなかにも霊が視えたり霊を感じたりする人がいるかもしれません。ですがこのことを周囲に包み隠さずに話している人は少ないのではないでしょか。それは噓つき呼ばわりされたり、精神に異常をきたしているのではないかと思われたりする危険性があるからです。そのため、このことをオープンにしていない人が多いようです。先に紹介した生徒や校長もそうでした。

わたしは、ここで「霊は存在するのです」と皆さまを説き伏せるつもりはありません。現代の科学でその存在を証明することはできません(存在の否定もできませんが)。霊を感じたり霊が視えたりすることについて「思い込みにすぎない」という一言で片付ける人もいることでしょう。

お伝えしたいのは、わたしが霊魂の存在を認めていて、霊魂の救済ができる僧侶になりたいと願ってきたということです。

現在わたしは、そのような僧侶になるために大法上人から指導を受けています。詳しいことは、次回に記すことにいたします。

【霊的な体験のひとかけら】

死後の霊の存在など微塵も信じることのなかった私が、仏道修行に入り、間もなく忽然と霊の世界が開けた。私の場合は、いわゆる個人的な霊感ではなく、妙法蓮華経という御経の力によって現わされる霊的世界なのだ。だから私自身霊の状態によって影響されたり支配されたりすることは、ない。
2年ほど前に母が、亡くなった。
病院から家に帰り臥した母のもとに真っ先にお線香をお供えしようと近づいたのは、私の兄だった。
兄は、仕事で忙しく病院で息を引き取った母の死に目に会えなかったのを悔いていたのだろうか。自信がなさそうに背中をやや丸くしていた。母への思いも深くあったのであろう。
母(の霊)は、まだ亡くなったばかりで弱弱しながらもそんな長男の背中にそっと触れて労わるようにしていた。「良いんだよ。お前は、そんなことを気にすることはないんだからね」と・・・・
そんな亡き母の思いを兄にそっと伝えたところ、目は潤みはじめた。
ああ母というものは、死んでも子(六十歳過ぎ)のことをやさしく思いやるものなのだ・・・・
つい霊が存在するか否かなどに興味がゆきがちであるが、ほんとうに大事なことは、霊的姿形の奥にある心を感じることだと思う。肉体のある時もそれは同じこと。しかし姿形へのとらわれは、しばしば物事の本質から私たちを遠ざけている。