弘教の僧 誕生す

こちらは、このたび4月15日~5月19日の身延山信行道場の修行を貫徹して正式に日蓮宗僧侶と認定された、私大法の修行上の弟子、小島 弘之(こうし) のコーナー としてこの度オープンしました。

その導入としてまた紹介として今回わたしが少々述べさせていただきます。第2回目からは、弘之 に文章を書いてもらって、彼の意気込みや体験談そして仏法を大いに語ってもらいたいと思っています。

物事が大きく展開するというものがあります。コロナ感染が、日本や世界各地に広がる直前令和元年の12月半ば、燃えるような思いを抱いて此の要唱寺に訪れた一人の強者(つわもの)がありました。

『ほんものの唱題を是非修得したい!!!』

有難いと言うほかありません。「今の時代には希なる久遠の仏陀直授の御題目を保持するものの、それを世に弘めるには、ひ弱で臆病で何かと力不足な私を、仏さまが、憐れんで助っ人を遣わしてくださったに違いない」と直感しました。名前もそれを物語っているではありませんか。弘之(こうし)=「(本化妙行の題目)をめる」

ところが、それからが大変。いよいよパンデミックが起こり、御題目をまともに修行することもままならない日々が続きました。彼は、唱題に関する書( 例)『南無妙法蓮華経のこころ』など )の著者として知られる横浜の瀬野 泰光 上人様の(宗門届け出上の)弟子であり、令和二年春の身延山信行道場入場も予定されていました。それも延期となってしまったのです。そのような困難な状況を乗り越え、今年晴れて(とは言っても感染に相当気をつかいながら)入場・成満しました。 https://yousyouzi.net/archives/2097

思うにこれらの困難もきっとこれからの弘教にとって必要な体験なのでしょう。

それは、彼個人のためでも私のためでも此の寺のためでもありません。仏法が此の世に真に現れ、日本国、世界中の人々が自らの本源に目覚め、真の平和が実現されるためです。

困難は、簡単には去りません。まだ当分パンデミックは、続くことでしょう。私と同じ六十三歳、弘之(こうし)には、居すべき寺もありません。しかし、それらをものともせず弘教に邁進することでしょう。何故なら法のための行動こそが真の寺院なのですから・・・。その精進に期待します。

獅子吼せよ

 

 

 

 

 

 

 

【死との向き合いと受容】その3

<プエブロ・インディアンの詩>
今日は死ぬのにもってこいの日だ
生きているものすべてが、私と呼吸を合わせている
すべての声が、私の中で呼吸している
すべての美が、私の目の中で休もうとしてやってきた
あらゆるわるい考えは、私から立ち去っていった
今日は死ぬのにもってこいの日だ
私の土地は、私を静かに取り巻いている
私の畑は、もうたがやされることはない
私の家は、笑いで満ちている
子どもたちは、家にかえってきた
そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ
死をこんなに明るく捉えられる人たちが、いらしたのですね。正直驚きました。これでは、亡くなって「ご愁傷様です」と言う訳にはいきません(微笑)。
こんな感覚で生きられたなら、どんなに平安で幸せなことでしょう。と思いつつも今の日本人には、遠い世界かな・・・・
さて、
これほど美しく前向きに捉えることのできる理由は、何でしょうか?
それは、人間どうしのつながりだけでなく、自然、世界、宇宙、つまり我々を取り巻く大いなるものとつながり生かされている感覚を持てることによると言われています。
実は、自然と大いなる仏さまに抱かれて生きている、という文化は、かつて日本にもあったのです。詳細については、またいずれかの時に・・・。
近代の科学と科学技術と産業の発展(飛躍的拡大)は、私たちの生活を物質的に豊かに快適にしました。その代わり自然もかつての文化や宗教も縮小してゆきました。その役割をほぼ終えたかのようにさえ思われたことがありました。
しかし、地球環境問題や大量破壊兵器の開発・使用など文明の矛盾や負の結果も無視できないほど大きくなりました。 医学の発展は、少なからぬ病気の当面の治癒を可能としましたが、根本的な治癒をもたらしたかどうは疑わしい(新たな病気が、起こって絶えることがない)ですし、病、老いや死の不安そのものを取り除くものではありません。
そこでふたたびかつての(精神)文化が、見直されようとしています。迷信とか古臭いなどと揶揄されていた祈りや瞑想も科学研究が可能となり、ふたたび意味を見出そうとしています。また時代の変遷も含め世界中の文化・文明の情報については、どこに居ても瞬時に得られるようになりました。
さあ、そこで、これまでの正も負もどちらの経験もいかして
『ほんとうの幸せとは何か?』
ということを深く広く長い目で考え導き出せる(すべき)時代が、これからこそ、到来するであろうことを感じています。
自然、空の画像のようです
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【死との向き合いと受容 】その2

人間にとって死の問題は、死それ自体ではなく「死の恐れ」という感情の問題である。

他国より来世を信じない日本人 「死への不安」も強い傾向と帯津医師が解説https://dot.asahi.com/wa/2021011500040.html?fbclid=IwAR0lKh3t5GKZsIVKecN91jOf4EtX-GABR83ilx4O6vVGzOXuXVp9jGyeGN0

帯津先生とは、医師らの研究会や科学者の集まりなどで何度かお会いしたことが、あります。私が発表した唱題プラクティスもご覧いただきました。先生の病院が、私の処からさほど遠くないのでいつか機会があったら病院の見学もさせていただきたいと思っています。先生が、ある処で「最高の癒しの場は、仏の浄土であろう」とおっしゃっておられましたが、わたしも体験的にその通りだと思います。肉体の病、心の病、魂の病を同時に癒してくれます。特に魂―心の深いレベルの癒しは、すべての根っことして大切。
かつて国際生命情報科学会の合宿の際に京都大学こころの未来研究センター カール・ベッカー教授の講演を拝聴させていただきました。その際先生は、以下のような要旨でお話しされ、特に日本の四十九日の法要の大切さについて力説されていたと記憶しています。
「目で見える物しか存在しないとか、死んだら人間は完全に消えてしまうとか、神も仏も霊魂も無い、というような物の見方は、世界のあらゆる時代や文明を遡って探してみても皆無に等しい」⇒現代の日本くらいなものだ、ということです。ありますよ。日本だって神仏や霊を信じるということ。でも総じて希薄だと思います。
日本の四十九日の一週間ごとの法要は、素晴らしいグリーフケアのシステムなのに何故日本人は、そうした自国の文化をもっと大切にしないのだろう、というようなことをおっしゃっていました。
そこに参加していた日本人の多くが、先生のそのお話しを聞いて皆驚いた様子(はじめて聞いたΣ(・□・;))だったのが印象的でした。現代の日本の状態を象徴しています。
ほんとうに法要は大切です。
死者と遺された方々の魂や心を深く(別離の悲しみやカルマに至るまで)癒すために・・・。ほんらい僧侶の読経は、仏陀の覚りの言葉のたましいを体現することにより、大いなる癒しの場をつくりだしていたのです。
という私もかつて神仏まして霊の存在など全くと言って良いほど信じていませんでした。信じる、というより体験的に知るようになったのは、仏教の修行に入ってからです。そのことについては、またいつかお話しできたらと思います。

臨死体験 その2

臨死体験そのものは、誰でも出来るものでは、ないでしょう。しかし、それを体験したり研究したりする人が、人生にとって大切なことを語ることは、できます。
カールベッカー先生、凄い。死や死後についての単なる知識人ではない。心の奥からほとばしり出てくる熱きもの。
臨死体験の研究 生きる意味 京都大学カールベッカー教授

【死との向き合いと受容】

誰も避けられない問題でありながら、常に回避したいこの事に向き合うことほど私たちに大いなるものをもたらすものはない。なぜなら人が死を受容し得た時には、その先に、死の恐怖から解放された明朗な人生が開かれるからである。
死すべき命と感ずる(観ずる)からこそ、真に生きられる、のです。
終末期医療の先駆者であり世界的な精神科医として知られるエリザベス・キュブラー・ロス博士は、「がん」などで死の宣告を受けた数多くの患者の終末を診療・研究することにより、多くの人々が、5つの心理的な過程(局面・段階)を経て最終的に「死を受容」してゆくことを突き止めた。
一般には、「死の受容」というと欲望や楽しみを捨て去った消極的人生の状態をイメージしてしまうのではないかと思う。
しかし、
キュブラ―・ロスは、晩年の書『ライフ・レッスン』の中でこう述べている。
「死の床にある人たちが教えてくれた意外なレッスンのひとつは、いのちにかかわるような病気の宣告を受けた時に人生がおわるのではなく、そのときに人生がほんとうにはじまるのだということだった。死の宣告をうけたときに真の人生がはじまるのは、死をリアリティとして認めたとき、同時に生のリアリティをみとめざるを得なくなるからだ」
また「死ぬ瞬間」に於いて
「死の受容の先に起こるであろう卓越したヴィジョン」を述べている。
「だれもがこの問題を避けたいと思っている。しかしいずれは直面しなければならないのだ。すべての人が、いずれは自分も死ぬのだということをじっくり考えるようになれば、様々な面で変化が起こるはずだ。なかでも一番大切なのは患者、家族、ひいては国民の幸福である。
もし医学生に、科学技術の重要性だけでなく、人間どうしの関係、総合的患者ケアの技術と知識を教えることができれば、真の進歩が得られるだろう。科学技術が誤用されて破壊的なものが増える傾向に歯止めをかけ、人間性よりも延命に重点が置かれているのを阻止し、科学技術の進歩に合わせて個人どうしの触れ合いの時間が減るのを食い止め、反対にそういう時間をもっと増やせば、そのとき、私たちの社会は本当の意味で偉大な社会といえるようになるだろう。
そしてついには、平和を―それも個人の心の平和だけでなく国どうしの平和をも―達成することができるかもしれない。死という現実と向かい合い、それを受容することによって」
無論、無理やり受容できる訳ではない。受容に至るプロセスがある(大事である)。時といものもある。
実は、以上のプロセスを死に直面してからではなく、健康な時から踏むことにより、根源的な苦悩から解放された明朗な人生を実現していたのが、当時(二千五百年前)の仏陀の弟子・信者たちである。この科学文明の時代でも色褪せない、否、今こそ輝くべき叡智である。