臨死体験 その2

臨死体験そのものは、誰でも出来るものでは、ないでしょう。しかし、それを体験したり研究したりする人が、人生にとって大切なことを語ることは、できます。
カールベッカー先生、凄い。死や死後についての単なる知識人ではない。心の奥からほとばしり出てくる熱きもの。
臨死体験の研究 生きる意味 京都大学カールベッカー教授

【死との向き合いと受容】

誰も避けられない問題でありながら、常に回避したいこの事に向き合うことほど私たちに大いなるものをもたらすものはない。なぜなら人が死を受容し得た時には、その先に、死の恐怖から解放された明朗な人生が開かれるからである。
死すべき命と感ずる(観ずる)からこそ、真に生きられる、のです。
終末期医療の先駆者であり世界的な精神科医として知られるエリザベス・キュブラー・ロス博士は、「がん」などで死の宣告を受けた数多くの患者の終末を診療・研究することにより、多くの人々が、5つの心理的な過程(局面・段階)を経て最終的に「死を受容」してゆくことを突き止めた。
一般には、「死の受容」というと欲望や楽しみを捨て去った消極的人生の状態をイメージしてしまうのではないかと思う。
しかし、
キュブラ―・ロスは、晩年の書『ライフ・レッスン』の中でこう述べている。
「死の床にある人たちが教えてくれた意外なレッスンのひとつは、いのちにかかわるような病気の宣告を受けた時に人生がおわるのではなく、そのときに人生がほんとうにはじまるのだということだった。死の宣告をうけたときに真の人生がはじまるのは、死をリアリティとして認めたとき、同時に生のリアリティをみとめざるを得なくなるからだ」
また「死ぬ瞬間」に於いて
「死の受容の先に起こるであろう卓越したヴィジョン」を述べている。
「だれもがこの問題を避けたいと思っている。しかしいずれは直面しなければならないのだ。すべての人が、いずれは自分も死ぬのだということをじっくり考えるようになれば、様々な面で変化が起こるはずだ。なかでも一番大切なのは患者、家族、ひいては国民の幸福である。
もし医学生に、科学技術の重要性だけでなく、人間どうしの関係、総合的患者ケアの技術と知識を教えることができれば、真の進歩が得られるだろう。科学技術が誤用されて破壊的なものが増える傾向に歯止めをかけ、人間性よりも延命に重点が置かれているのを阻止し、科学技術の進歩に合わせて個人どうしの触れ合いの時間が減るのを食い止め、反対にそういう時間をもっと増やせば、そのとき、私たちの社会は本当の意味で偉大な社会といえるようになるだろう。
そしてついには、平和を―それも個人の心の平和だけでなく国どうしの平和をも―達成することができるかもしれない。死という現実と向かい合い、それを受容することによって」
無論、無理やり受容できる訳ではない。受容に至るプロセスがある(大事である)。時といものもある。
実は、以上のプロセスを死に直面してからではなく、健康な時から踏むことにより、根源的な苦悩から解放された明朗な人生を実現していたのが、当時(二千五百年前)の仏陀の弟子・信者たちである。この科学文明の時代でも色褪せない、否、今こそ輝くべき叡智である。

臨死体験 その1

わたし自身は、臨死体験はありません。しかし、道場の厳然たる修行に於いて数多の死後の霊魂の体験を持っています。厳然たるとは、仏教修行として、そしてそれを行う科学的姿勢として厳格に行い続けたつもりです。その立場から今回は、「臨死体験」について少々述べさせていただきたいと思います。

臨死体験は、古代から報告されて来ました。しかし、かつては死んで帰って来たといった体験を語る人は稀で、これまで臨床の場では、もっぱら死が迫り心身が混乱した人の戯言か幻想であるとして切り捨てられてきたのです。
しかし、近年救急救命医療が発達したことにより、仮死状態から蘇生し、意識を取り戻す例が珍しくなくなり、それと共に臨死体験を公言する人が、急増しました。なおかつその内容に共通性がみられることが少なくなく、「死後に現実の世界が観察できた」とする証言と状況証拠が一致する報告例も多いことから、臨死体験は、人の生と死の境界で発生する現象と認める科学者や医師が特に欧米で増えている、といわれます。
少なくとも現代医学が常識としてきた死の定義を見直し、さらに死後の世界の有無についても真摯に検証すべきではないか、という動きが出てきました。
今やその例は、枚挙にいとまがありませんが、特に世界の医師に臨死体験の現実性を認めさせたのは、1991年アリゾナの病院の手術室で起きた、バム・レイノルズさんの臨死体験です。人工的に心肺停止状態をつくり脳も機能停止しているということが確かめられた上での臨死体験であったために信憑性が高いものと評価されました。オランダの心臓外科医で臨死体験研究者のピム・ヴァン・ロメル博士が、この例に触発され、独自に調べた心肺停止状態から蘇生された患者344人を対象にした臨死体験の臨床研究としての学術論文が、2001年世界的に権威ある医学誌『ランセット』に掲載されました。
殊に注目すべきは、臨死体験をされた方に心境の変化が起こっていることです。例えば、
① 物欲が、薄れた。(臨死体験者の約半数)
② 名誉や社会的地位への関心も薄れる。
③ 大切なものは、愛や思いやり、そして人間関係であると覚る。
④ 死ぬのが怖くなくなる。
人々は、臨死体験というとその不思議現象に目が奪われがちです。しかし、その本質は、まさにここにあると思います。
参考 エリコ・ロウ著「死んだ後には続きがあるのか~臨死体験と意識の科学の最前線~」(扶桑社)

小島 弘之 身延山信行道場成満

唱題プラクティス 5月26日
「此の経(法華経)は、内典(ないでん=仏教経典)の孝経なり」
弟子の小島 弘之は、今年の春の身延山信行道場に入場し、5月19日に終了し、正式に日蓮宗僧侶と認証された。
彼にとって帰宅後の最初のZoom唱題であった。唱題中、彼と私とは、共にひとつの妙法の世界に入った。
そこで図らずも彼が、信行道場中に亡くなった義理の母の魂の供養となったのである。そのたましいは、私の身体を借りて現れた。私は霊媒ではない。南無妙法蓮華経という一念三千の法界に鏡のように映し出されるのである。最初彼女は、蕾を抱いていたが、小島弘之が唱える南無妙法蓮華経の功徳を受けて蓮の華が咲いたのである。蓮華とは、成仏を象徴する。そして亡き彼女は、小島に「有難う」と言おうとしている様子が見て取れた。
実は、此処に至るまでには、いくつかの不思議があった。
彼が、信行道場で修行に励む最中、もちろん彼は義母の母の死を知り得ないのである。しかし、ある日、道場生全員で行脚をしながら松樹庵(日蓮聖人が、現在の奥の院に登る途中で休憩された場所に建てられた)を目指す途中で何故か自然と涙が溢れて止まらなくなった、というのだ。従来なら身延山奥の院思親閣(日蓮聖人が登られ、そこから東方安房の国の方を見ながら亡き父母の菩提を祈った場所に建てられた)に参拝して親孝行に勤しんだ日蓮聖人に思いを致し、その精神を胸に深く刻む、というのが趣旨だと思うが、今年はコロナ感染拡大の影響から行動範囲が制限され、手前の松寿庵に詣でることとなった。
その途中で彼に上述のような不思議な現象が起こり、本人も不思議に思っていた。その時、訓育主任に提出した日誌につぎのような彼の文章が残っている。
「お題目を唱えながら行脚しておりますと、なぜかしばらく自然と涙が流れてきて止まりませんでした。私自身の感情に起伏は全くありません。不思議でした。何となく、どなたかの御魂が喜んでいらっしゃる涙であるような気がしました。改めて身延が聖なるお山であることを実感しました。」
そして5月19日に修了式を終えて迎えに来ていた奥さんの口から出た言葉で彼は、あの涙を義母の喜びの涙だったと理解したという。
千葉東金にある病院に入院していた奥さんの母が、ちょう彼が松寿庵に向けて行脚していた時に亡くなっていたのである。
思親閣は、日蓮聖人が身延より東方の千葉の亡きご両親のために祈った場所に建てられた寺院なのです。今回は、その代わりの寺院だったのですが、意味合いとしては同じです。つまり親思いの厚い日蓮聖人を深く思い出し心に刻む、という修行。
これをただの偶然だよ、と取る方もあると思う。しかし、わたしたちは、日蓮聖人の弟子たらんとする一僧に与えられることになった妙法の修行があったと見るのである。そしてその奥深い不思議さに胸を打たれたのである。
さらにこの日に限って私にも不思議があった。此のZoomに参加される方々の中には、悩みを抱える方が少なくなく、日蓮聖人が書かれた、祈りの心を高める趣旨の文章を選ぶことが多かった。しかし、教本をパッと開いて目に入ったのは、死後の安心を説いた波木井殿書の一節だった。そこで違う御文章を選ぼうとしたら次に開かれたのは、亡き父母のための孝行を説く開目抄の一節であった。いずれも死後の世界に関することなので、もう一度選び直そうと思ったが、いえ、このまま開目抄にしようと思い直して読んだのである。
「今法華経の時、悲母の成仏も現れ・・・・此の経は、内典の孝経なり云々」
そして続いて唱題を行った。そして、そこに起こったのが、彼の縁者の亡き霊の供養だった。
すべて終わって唱題の内容を検討するうちにわれわれは、シンクロニシティの数々に深く胸を打たれたのである。
私たちの計らいを超えた妙法の世界のひとつの体験に・・・・。
最後に彼の今回の唱題に関する感想
「本日の唱題で、義母に孝行ができましたことを実感させていただきました。」

いま 唱題プラクティスとは ?

 いま唱題プラクティスは、最新の科学的知見と古代からの叡智を統合することにより、私たちに新たな生き方をもたらそうとしています。人間の感情の問題(不安、怖れ、怒り、嫉妬、恨み、憎しみ等)は、”いのちの根源的法”によって本来の在り様へと回復され、わたしたちは、感情に対する軽やかな扱い方とほんとうの幸せを実現することになります。 ※人間の迷いや感情の問題を放置したままの幸福の追求は、苦しみの結果を引き起こしています。

 現代の世界の経済活動を支える思想の根底には、「快のあくなき追求が、人類の幸せをもたらすであろう」という誤れる確信があります。これには、生存の可能性を高める一定の効果はあるものの、様々な生活習慣病やストレス性の身心の病、貧困、搾取、争い、環境問題等をもたらし止むことがありません。

 快の追求は、一時的な心地よさをもたらしますが、それが習慣的になると幸せどころか、結局のところ苦悩・苦痛を誘導してゆくのです。 ※快 それ自体は、生存に関わる大事な機能のひとつなので否定しません。ただ、それが過剰になったり、そこにとらわれることは、むしろ不幸をもたらします。

 唱題プラクティスは、ほんとうの幸せ感を実現するがゆえにその結果として快感のループに呑み込まれることがなくなります。その幸福感とは、単なる個としての幸せではなく、大いなるもの―神々宇宙全体とつながったところに涌きあがる無限の幸福なのです。その実感は、地球全体、生物、人間同士の調和的生き方を導く基礎的な力となります。  ⒜このことに関して世間では、快感をコントロールすれば、次に平安と幸せがた訪れるであろう、と考えます。此の方法は、一見合理的に見えますが、実際には、解決に限界を生じるのです。なぜなら人間の脳の機能が、そのように出来ていないからです。順番が、逆なのです。こころからの幸せを体験する。その結果として快感のループへの依存がすんなり収められるのです。

合掌                     

要唱寺 住職/蓮(れん)実践心理学研究所 所長  斉藤 大法