【盂蘭盆会(うらぼんえ)~たましいの救済~】

かつて「人は、死んだらお終い。たましいなどない」と考えていた私でしたが、仏道に縁があって修行してゆくうちに死後の魂の存在や状態とそれが祈りによって良い状態(いわゆる成仏に向けて)に変化してゆくプロセスをつまびらかに体験として知ることができるようになってゆきました。単に死後を知ったというのみならず、このことは、大きな人生観の転換でもありました。
今日(8月14日)午前中、私のお寺では、Zoomを通しての「盂蘭盆の供養会」が行われました。お盆の行事の原点(根拠)とみなされている『盂蘭盆經(うらぼんきょう)』に記されている、餓鬼道の苦しみに喘ぐ亡き母を救ったお釈迦様のお弟子 目連尊者の物語は、単なる儀式というものはなく、まさに魂の救済の実践であり、その中に人生の奥深い智慧がちりばめられています。
そのこと(たましいの救済)を参加者ひとりひとりが、その人なりに実体験していただき、自らの霊性を開き、今後の人生の智慧としていただくというのが私のお寺の盂蘭盆会の趣旨です。ですから私のお寺では、祈る主人公は、参加の方々であって僧侶ではありません。僧侶は、御経を唱えて供養する専門家で、人々はそれを聴いている人などと分けたりは、しないのです。むしろ参加者こそが主人公だという考え方です。そして皆さんが、それぞれに体験し、体験を深めようとすることができるようにお手伝いする、そういう意味で寄り添いながらリードするのが、僧侶の役目であると考えています。
一例ですが、今日の盂蘭盆会では、「亡き親のために一生懸命唱えていたら、だんだん充実した唱えになり、最終的には、『人様のために愛のワークをしたい』というインスピレーションが自然と湧いてきた」という方がありました。これからそういう方向で生き活動してゆきたいとのことでした。 それを聞いてわたしは、とても嬉しくなりました。亡き方もその方(子ども)の唱えにより、苦悩から解放され平穏になってゆくさまが確認されました。

なぜ大法上人を師として唱題をすることとなったのか その3

【大法上人のもとで唱題をしたいと思ったもう一つの理由】

なぜ大法上人を師として唱題をすることとなったのか。

「理由をまとめれば、自己のたましいが癒され、輝きを増して成長していくことが実感されたから」

そのように前回記しました。

実はもう一つ、大法上人のもとで唱題修行をしようと決意した理由があるのです。しかしこのことを、今ここで記すことには少々ためらいがあります。それは、その理由というのが現代の社会のなかでコンセンサスが得られていることではないからです。ですがこのことを明らかにしておかなければ、連載を先に進めることができません。

記すことにいたしましょう。

真に霊魂を救済し得る僧侶になりたい。この願いを叶えるために大法上人の指導を受けたい」

この思いが、もう一つの理由です。

『デスノート』という漫画(死神のノートに名前を書くだけで人を殺すことができるというストーリーです)を読んでいて、正確には覚えていませんが、こんな感じのセリフに出会いました。

「死は誰にとっても平等である。死は暗黒、永遠の眠りであるから」

天国も地獄もなく、悪人も善人も死んだら永遠の眠りにつく。無に帰る。そう考えている人が現代の日本では多いようです。僧侶でも死後残るものは何もないと考えている人がいます。

日本以外の国では、仏教の僧侶は例外なく「死後の生」を認めているといっても過言ではありません。しかしわが国では、宗派によってその比率に差はあるものの、多くの僧侶が死とは無に帰ることであると考えています。僧侶が大学の仏教学部で学ぶ近代仏教学の講義は霊魂の実在を前提としていないのです。

釈尊は決して「死後の生」を否定しているわけではないのですが(詳しいことは別の機会に述べたいと思います)。

「お盆の期間は、先祖があの世から帰ってきて、わたしたちと共に家で過ごす」ということを、素朴に信じ受け入れている人が多数を占めている時代がありました。しかし今は、それは単なる習俗となっています。本気で「霊魂を救済し得る僧侶になりたい」と言うわたしのことを「前近代の遺物」と思う人は、少なからずいることでしょう。

ですが私の気持ちを受け止めてくださる方もあることと思います。霊を肌で感じる人が今の時代にもいるのです。現代日本人の死後観は単純ではありません。

わたしは十代のころから仏教と共に心霊研究、すなわち霊的世界の探訪をしてきました。

その過程で、病院にいくことをお勧めしたい、妄想の世界に生きている自称霊能者や霊媒にも少なからずお会いしました。ですが一方では、霊を感じる、まっとうな人たちとも出会い、わたしは「死後も人は生きている」ということを自明のこと認識するに至りました。

高校の教員時代には霊が視える生徒に何人も出会っています。その生徒たちは決して心を病んでいたわけではありません。彼ら、彼女たちは、わたしが心霊研究をしていることを知って、霊が視えることをそっと打ち明けてくれました。

生徒だけではありません。日常、霊を感じている校長に仕えたこともあります。

わたしは主幹教諭というポジションにいて、よく校長室に赴いていたのですが、ある日校長から「霊を感じたり霊が視えたりすることがあるんだ」という告白を受けました。その日の夜、わたしは校長の霊的体験談を飲み屋で聞くこととなりました。

皆さまの周りに、いや皆さまのなかにも霊が視えたり霊を感じたりする人がいるかもしれません。ですがこのことを周囲に包み隠さずに話している人は少ないのではないでしょか。それは噓つき呼ばわりされたり、精神に異常をきたしているのではないかと思われたりする危険性があるからです。そのため、このことをオープンにしていない人が多いようです。先に紹介した生徒や校長もそうでした。

わたしは、ここで「霊は存在するのです」と皆さまを説き伏せるつもりはありません。現代の科学でその存在を証明することはできません(存在の否定もできませんが)。霊を感じたり霊が視えたりすることについて「思い込みにすぎない」という一言で片付ける人もいることでしょう。

お伝えしたいのは、わたしが霊魂の存在を認めていて、霊魂の救済ができる僧侶になりたいと願ってきたということです。

現在わたしは、そのような僧侶になるために大法上人から指導を受けています。詳しいことは、次回に記すことにいたします。

【霊的な体験のひとかけら】

死後の霊の存在など微塵も信じることのなかった私が、仏道修行に入り、間もなく忽然と霊の世界が開けた。私の場合は、いわゆる個人的な霊感ではなく、妙法蓮華経という御経の力によって現わされる霊的世界なのだ。だから私自身霊の状態によって影響されたり支配されたりすることは、ない。
2年ほど前に母が、亡くなった。
病院から家に帰り臥した母のもとに真っ先にお線香をお供えしようと近づいたのは、私の兄だった。
兄は、仕事で忙しく病院で息を引き取った母の死に目に会えなかったのを悔いていたのだろうか。自信がなさそうに背中をやや丸くしていた。母への思いも深くあったのであろう。
母(の霊)は、まだ亡くなったばかりで弱弱しながらもそんな長男の背中にそっと触れて労わるようにしていた。「良いんだよ。お前は、そんなことを気にすることはないんだからね」と・・・・
そんな亡き母の思いを兄にそっと伝えたところ、目は潤みはじめた。
ああ母というものは、死んでも子(六十歳過ぎ)のことをやさしく思いやるものなのだ・・・・
つい霊が存在するか否かなどに興味がゆきがちであるが、ほんとうに大事なことは、霊的姿形の奥にある心を感じることだと思う。肉体のある時もそれは同じこと。しかし姿形へのとらわれは、しばしば物事の本質から私たちを遠ざけている。

盂蘭盆(うらぼん)

「盂蘭盆(うらぼん)」「お盆(おぼん)」の時節が、まいりました。

わが国では、ご先祖様などをお迎えして、さまざまなご馳走などをこしらえてお供えし、喜んでいただく、満足していただくための様々な優しい心遣いや工夫がなされています。そしてそのために家族や親せきが集まって相親しむ団らんという面もありますね。お寺に集まって法要を行う場合もありますし、お坊さんに家に来てもらって読経していただいたりします。

もともとお盆は、お釈迦様のお弟子のひとり目連尊者(もくれんそんじゃ)の亡き母が餓鬼界の苦しみにあえいでいたのをお釈迦様の指導のもとに救ったことから起こった仏教行事とされます。日本だけでなく広くアジアの仏教国などで行われています。

当寺院では、すべての人が速やかに仏になれることを明確に説いた法華経に基づいて亡き方々の魂の供養を行っております。

この盂蘭盆の法要を通して、皆様のご先祖の方々が、たとえ最初は、悲しみや辛さがあったとしても、やがて静けさや穏やかさへと変わり、喜びや天の楽しみを味わい、たましいが満たされてゆくさまを共に感じていただけたら幸いです。    合掌

【臨死体験と脳と霊魂】

私は、医学生の頃、医師になってから、そして僧侶になってからも暫くは、死後の霊の存在を信じていませんでした。
その大きな根拠を与えてくれたのが、この脳外科医ペンフィールドの研究結果としての脳地図です。そのほかにも医学的な理由があります。
※ペンフィールドについて http://www.scj.go.jp/omoshiro/kioku1/kioku1_2.html
この動画をご覧ください。立花隆さんが登場します「ペンフィールド博士とシルビウス裂」 https://www.youtube.com/watch?v=JyE6qygxuaU
脳こそが、人間の精神活動をつかさどる場、人が死亡した場合、当然脳も死んでしまうのだから、その後の精神活動があろうはずはない。したがって死後の霊の存在などあり得ない、というのが私の考えでした。
ところが、かのペン・フィールドが、晩年「脳だけでは、人間の精神活動のすべてを説明できない」という結論に達し、このビデオにはありませんが、霊的存在を考えておられたのです。このことは、わたしにとってかなりの衝撃でした。
一方、わたしは、僧侶となってやがて数多くの霊的存在を明瞭に体験することになりました。その中には、死後間もない場合もかなりの時間を経過した場合もありました。単に死後の霊の存在云々だけでなく、霊が供養を受けて微妙に変化してゆく様に至るまで・・・。このことは、私の人生に大きな変革をもたらしたひとつです。
この動画では、立花隆さんと米国の医師メルビン・モースとの対談で、医師は、臨死体験は、脳の側頭葉シルビウス裂溝のあたりが関連している、としながらもそれだけれで説明し得ない現象(体外離脱体験した時に周囲の状況が見えている)があるといいます。
彼は、霊魂とシルビウス裂溝との何らかの関連において起こるのかもしれない、と考えているようです。