小さな弟子と身延山に参拝しました。

<その1>

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1月11日から12日にかけて、一泊二日で身延山に参詣してきました。中学一年生の男の子、ガクト(仮名)も一緒です。11日から中学校は始まりますが、彼は、両親の承諾を得て、わたしにくっついてきました。

ガクトは、わたしの教え子の息子です。ですが身延で出会った人たちは、ガクトを、わたしの孫だと勘違いしていました。

ガクトは仏縁のある子のようです。六十歳を越えた坊主と二人で寺に詣でたいと言う中学生は、普通はいないでしょう。ですが、ガクトは、学校がある日だけれど、わたしと一緒に身延に行きたいと両親に懇願したのです。

彼は、修行をしたかったようで、「身延山に行ったら水を被るんですか」などと、わたしに質問しました。水を被ることはしませんでしたが、彼にとってはよい修行になったようです。・・・・・https://kasinoki1957.hatenablog.com/entry/2022/01/14/005400

<その2>

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身延山での二日目は、昨日とは打って変わって快晴でした。朝五時半に宿坊を出て、六時から始まる久遠寺の朝勤(ちょうごん)に向かいました。都心に住んでいるガクトは、星がきれいに見えることに感動していました。

広い久遠寺の本堂には一切、火の気がありません。厳しい寒さの中に座して、読経、唱題をすると、清々しさを感じました。ガクトも神妙に手を合わせていました。初めて聞く大太鼓の鳴り響く音は、驚きであったようです。

朝勤を終え、宿坊に戻って朝食を済ませると、身延山の山頂にある奥の院・思親閣に向かって、本堂西側の山道を登り始めました。山頂までロープウェイで行くこともできますが、それでは修行になりません。

山頂までは、寄り道をしなければ、歩いて約3時間です。わたしたちは、山中で亡くなった人の供養塔など、さまざまな場所で合掌、唱題しながら登りました。・・・・・https://kasinoki1957.hatenablog.com/entry/2022/01/14/163529

 

 

 

Zoom chanting practice scheduled for January 2022

The chanting of our temple is a fusion of the ultimate wisdom of the Buddha and modern science to heal the mind under the stress and suffering of modern life, to bring peace of mind, and to realize a fulfilling life.

Topics: Chanting Practice A. Healing / B. Peace of Mind (From this month, the Chanting Practice will be divided into A. Healing / B. Peace of Mind)

(Time) January 2022, 08:00 PM-.

A. Healing section is more for those who seek deep healing now. You can also just listen to it. ⇒ January / 8(Sat), 15(Sat), 24(Mon), 29(Sat)

B. Peace of Mind is for those who want to go one step further from the healing stage and actively chant. ⇒ January / 10(Mon), 12(Wed), 19(Wed), 26(Wed), 31(Mon)

You can choose to participate depending on your own situation. Of course, it is possible to participate in both. (In principle, camera off, mute)

In both cases, chanting will be performed with small Dharma talks and commentaries (prayers may be included).

(Participation fee) None in particular. (Prayers may be included.) (Fee) None, but we would greatly appreciate it if you could voluntarily make a donation to support this chanting or our overall activities. Please send your donations to: https://yousyouzi.net/?p=565&preview=true

If you would like to participate (even if you participated last month), please send an email to the following email address (your name and intention to participate). daiho_cs@yahoo.co.jp

In principle, participants will turn off and mute their cameras. (Since only I (Daiho) will be shown on the screen, each participant will practice the chanting as if they were one on one with me.)

If there are any changes or cancellations, they will be posted on the front page of the Yochoji website as soon as possible, so please check there.

If you would like to learn more, please contact us. ⇒daiho_cs@yahoo.co.jp

 

ハワイ大学で授業 11/7

ハワイ大学のジョイ教授のお招きにより、講義をさせていた。「内なる平和=Inner Peace」という大タイトル8回シリーズの2コマが、私の担当となった。ちなみに私の前回(第6回)は、オバマ前米国大統領の妹、Maya Soetro -Ng 博士(オバマ平和研究所)であった。このような方と共にレクチャーをさせていただくというのも世界平和の基礎として私たちひとり一人の「内なる平和」の実現が、今日いかに大切かを示唆しているものと思う。

テーマ ”悲嘆(グリーフ)とたましい”
行学融合 スタイルの講義です。観念的な講義にとどまらず実践・実感を重視する。
①ハワイ大学ジョイ教授による私の紹介、②講義、③読経瞑想(自我偈)、④質疑応答
(下のユーチューブからご覧になれます。)
この実現にあたっては、ホノルル妙法寺住職&オペラ歌手の山村 尚正上人ならびに通訳ディーン氏、その他皆様方の多大なご尽力を頂きました。深く御礼申し上げます。  合掌

1人、花、テキストの画像のようです

1人、花、、「COLLEGE OF SOCIAL SCIENCES MATSUNAGA INSTITUTE PEACE University Hawari Manoa Inner Peace/Meditation Practice & Learning Series November 6th 3:00-4:00PM ADDRESSING THE SOUL/SPIRIT GANDHI'S CONCEPT OF SOUL FORCE: SATYAGRAHA SPIRITUAL ENERGY VITAL FORCE CONCEIVED AS CONSTITUTING, RESIDING IN, OR EMANATING FROM THE SOUL」というテキストの画像のようです

今回のテーマは「悲嘆=Griefとたましい」(下のパンフには、テーマは、「たましい」になっているが、依頼で変更になったのです)
特にこのコロナパンデミックにおいて、重症化、死亡において他とは異なる悲嘆の背景がある。世界的な問題でもある。かつて潜在意識の領域として扱われた問題でもあり、たぶん未来に影響する。
そんなテーマと講義の依頼が、私のところに来たのも不思議というか、時代の流れなのかも知れない。悲嘆についての悩み相談は、しばしば受けている。
もちろん、ここにおいては、医学という視点だけでなく、心理学、精神医学、特に仏教的視点からお話しさせていただいた。具体的には、知られざる葬儀の意味~故人や家族レベルから社会レベル。
今回原稿をつくるにあたって、改めて深く共感したいくつかの言葉をあげてみたい。
上智大学グリーフ・ケア研究所所長の島薗 進先生
「死別の悲しみは、なくそうとしてもなくならない。ただ悲嘆とともにある私たちの在り方が、変わる(変われる)のである」
精神科医ジグムント・フロイト
悲嘆には、悲嘆の仕事がある。
ナチ強制収容所を経験した精神科医 V.E.フランクル
人生に意味があるかを問うのではなく、人生の方からわたしたちに常に「今この状況の中でいかに生きますか?」と問われている。→はっきり言って、すごい発想の転換 = 生きる基本姿勢として採用させていただいています。苦も楽もすべて人生の課題となっています。
精神科医、終末期医療の先駆者、エリザベス・キュブラ―・ロス
死の宣告を受けた人の死の受容の難しさと受容しえた場合の人生における輝かしい意味。
仏陀
その死の向き合いを若く健康な時に実践することにより、死の恐れから解放された平穏で自在な新たな生を実現した。このことに気づいていただくとグリーフ・ケアは飛躍的に進化・深化する可能性がある、と考えている。
そして、
かつてあった宗教的、社会的支え(人間どうしの支え合い)が衰微して個人レベルで悲嘆に向き合わなければならない現代人の厳しい現状の理解のもとに新たな方法を見出さなければならない時代である。また、それに寄り添い支えるための新たな人やシステムの構築に向かって・・・・それが、つい五十年以上前の葬儀・法要にあったとは、今日どれくらいの人が知るであろうか。グリーフ・ケアは、勿論のこと壮大な感情と行為の浄化と希望を生み出すために構成された仕組みであった。
今後脳の意外な構造と機能を広く理解した上で話し合える状態になりたいものだと思う。これが、わかれば「こころ」という問題、自由意志、トラウマ、カルマのことが、かなり実感され、理解されると思う。そこらあたりからが、スタートなのではないかな、この時代は、・・・宗教ではなく、人生の実践の道~心の科学とその実践。

 

 

 

 

 

 

大法上人の唱題

大法上人と初めてお会いしたのは、令和元年、師走の11日。場所は六本木、妙善寺の唱題プラクティスの会場でしでした。

年が明けて令和2年の1月3日

大法師は、わたしに「寒修行をしてみないか」と声をかけてくださいました。これは酷寒の時期、集中してお題目を唱え抜く修行です。わたしは、この年の正月から2月末にかけて頻繁に要唱寺に参じて唱題をすることとなりました。

横浜市の自宅から埼玉県行田市の要唱寺までは往復5時間かかります。

行き帰りの湘南新宿ラインの車中では、あたりまえのことですが朗々とお題目を唱えることはでません。かといって小声で唇を動かして南無妙法蓮華経と唱えれば、近くにいる人から危ないおじさんと思われるのは間違いありません(合掌して唱えたら、さらに危なさは増すでしょう(笑))。

ですが無為な時を過ごすのは、もったいないことです。そこで車中では、心の中でお題目を唱えたり、法華経を読んだりしていました(実はうつらうつらと気持ちよく船をこいでいることもありました。修行者失格ですね)。

ちなみに法華経は妙法蓮華経という経典の題名の略称です。

南無妙法蓮華経は、「妙法蓮華経に対して南無します」という意味です。南無は、いのちをかけて信じ、身命を投げ出して、その教えに従うことを意味します。

要唱寺からの帰宅は遅くなることもしばしば。夜の下忍上分のバス停で、時間通りに来ないバスを、コートの襟を合わせて寒さに震えながら待っていました。この時、あらためて「修行をしているのだなあ」と実感しました。

大法上人の唱題に接してまず驚いたのは、声調や声の大小などが変化することでした。

唱題の声は、ときには天女のように澄んだ優しい声となり、明王のような力強い声となり、あるいは子供のような無邪気な声とり、老人のようなしわがれた声となり…と変わるのです。その時どきで表情が変貌することもあります。合掌した手がスッと頭上に上がって左右に開かれていくといった動きが生じることもあります。

わたしは十数年間、お題目を唱えてきましたが、自身の声や姿が変化することは、まったくありませんでした。多くの僧侶や信徒といっしょに唱題をしてきましたが、お題目の声や唱える姿が変化する人も見たことがありません。

大法上人のお題目は、唱題の本道から逸脱した異端のお題目なのではないか。そのように見なす人もいるでしょう。長年、旧来のお題目を唱えてきた人のなかには、これを受け入れ難いものであると感じる人もいることでしょう。

ですがわたしは、驚きはしましたが、大法上人の唱題にむしろ感動を覚え、心惹かれました。大法師の唱題の変化は、全身全霊の唱題が真に深まったときに、はじめてもたらされるものなのではないか。そのように感じたのです。その後、それは極めて深遠な意味がある、ということが分かってゆくのです。

大法師の唱題は、合掌に始まり合掌に終わります。師の基本となる唱題の声は、迷いのない落ち着いたものです。

唱題時の変化は意図、操作されたものではまったくありません。かといって霊の憑依による変容といったものでもありません。わたしには心霊研究の経験がありますので、このことがよくわかります。

霊媒に霊が憑依すると、トランス状態(忘我の状態)となり自己の意識は希薄となります。

いっぽう大法師の唱題時の意識は常に清明です。澄んだ意識で自己を観察しているのです。

憑依された霊媒は、霊が抜けた後も、ぼ―っとして平常時の意識に戻るのにしばし時間を要します。ですが大法師の場合は、そもそも霊を身の内に招いているわけではないので、意識はいつも明晰で澄んでいます。

ではいったいこの唱題時の変化は何によってもたらされるのでしょうか。「それは仏法の持っている大いなる力によるものなのです」と大法師は言われます。

仏法とは何か。それは「あらゆるいのち、存在、現象を、そのものたらしめているは働き・力」です。これは宇宙を貫く根源の法則と表現することもできます。

仏法は妙法と呼ばれることもあります。

この仏法が心身に現実のものとして現れ、そのことによって声や動きがダイナミックに変化するのが大法上人の唱題であるのです。

仏法は妙法と呼ばれることもあると記しましたが、妙法は妙法蓮華経五字の略称です。

仏法とはすなわち妙法蓮華経の五字であり南無妙法蓮華経の七字であるというのが日蓮聖人の教えです。

日蓮聖人の教えによれば、妙法蓮華経の五字は、経文の単なる題目(タイトル)ではありません。南無妙法蓮華経の七字は、ただの唱え言葉ではありません。この五字・七字は、万物を生かす根源の法であるのです。唱題とは、この根源の法と一つになることなのです。

大法師が全身全霊で南無妙法蓮華経を唱えるとき、師は南無妙法蓮華経と一如(一つ)となり、師の内から妙法の働きが、実際におのずと涌き出てくるのです。

妙法の働きが体現されるのは、禅、その他の瞑想ではありえないことです。

日蓮聖人は、妙法蓮華経は明鏡(くもりなき鏡)であるとも言われました。大法上人が唱題して南無妙法蓮華経と一如になるとき、妙法の力により、師の内面の明鏡に如来や天人、亡き人のたましい等の姿が映じてきます。

このことによって、たましいの供養の際には、遺族は故人の御霊(みたま)の状態を、大法師の唱題の声や姿を通して明確に知ることができるのです。さらには、南無妙法蓮華経と一如となった大法師によって、故人の御霊は安らぎを得て浄土へと導かれていくのです。

以上のことは,日蓮聖人の説かれた一念三千の法門を知ると、理解が深まるのですが、このことはいずれ記したいと思います。大法上人の唱題の特質について、次回以降もわたしの体験を踏まえて述べてまいります。連載一回分のスペースでは、とても収め切ることはできません。

さて、ここまで大法師の唱題がどのようなものであるのかについて、わたしが頭脳で理解している範囲で語ってきました。

ですが、本当に大法師の唱題を身に付けるためには、頭を捨てなければなりません。知性が唱題修行の妨げとなることもあります。

わたしは、寒修行の期間、頭を捨てて唱題をする修行をしました。このことについても回を改めて記すことにいたしましょう。

☆ 私 小島 弘之 は、このたびブログをはじめました。こちらもご覧いただければ幸いです。

https://kasinoki1957.hatenablog.com/?fbclid=IwAR3lkBPzNJjV_4NWby1ZDBOCKctXnv87H7Hrt4kEiQLGEpwE3WuGftVHV-c