【カンボジア初の大乗仏教の式典が日本人僧侶により奉行される】

カンボジア最大紙 RASMEI KAMPUCHEA リャ・スマイ カンボジア 2006,10,26 に掲載されました。

3人、立っている人の画像のようです

<写真左: 斉藤 大法 上人とディム・チェツタ上人が(施餓鬼会)の修行の解説をする>
<写真右: チェツタ上人が大法上人の前に立って行進>

日本人僧侶 斉藤 大法さんによってカンボジアで初めての大乗仏教の式典(お会式と施餓鬼会)が、奉行された。このイベントは、二つのNGOの協力によって執り行われた。その内容は、日蓮聖人の第725回忌お会式と施餓鬼会〔ベトナム対アメリカの戦争によって巻き込まれて死亡したカンボジア国の人々殊にはポルポト政権下で殺戮された人々の霊魂の供養〕である。
日本のCS(四方僧伽)代表代行 斉藤 大法上人は、10月25日午後6時からカンボジアのCSならびにAIM(Appropriate Technology International Movement)のメンバーと共に、紙でこしらえた「さくら花」をかついで練り歩いた。カンボジア初のこの式典は、プノンペン市,マカラ7,ヴィールヴォング通り,99にて挙行された。
仏教を広めるために日本からやって来た斉藤上人は、ラスメイ・カンプチア新聞に対してこう語った。「日蓮聖人は、日本において最も偉大なる僧侶として知られています。聖人は、1282年10月13日午前8時頃、61歳のご生涯を閉じられましたが、ちょうどその折2つの大いなる出来事が起こりました。一つは大地が震動したことであり、もう一つは時ならぬ桜の花が咲いたことです。」
大法上人は、続けてこう語った。「釈尊がご入滅された時も大地が震動し、紗羅双樹が悲しみのあまり白色に変わったとされております。普通サクラは3月か4月に咲くものですが、あたかも聖者のご入滅のように不思議な事が起こったのです。桜の花は、日本人の心です。その美しさは、富士山に次いで二番目とされています。時ならぬ桜が開花するなどという現象は、日蓮聖人のような聖者の死を除いて通常では起こり得ないことと考えられます。日蓮聖人は、日本の国のために優れたことをなさいました。当時の日本は、洪水、(流行病)、地震、戦争、飢饉が(立て続けに)起こりました。聖人は、それらの種々の災難を止め日本の人々を救済するための方法を仏陀の経典に見出そうとされました。そして『立正安国論』をつくりあげたのです(時の政府に提出したのです)。
(カンボジア)AIM代表であり大乗仏教の研究家としても知られているサン・キエ氏は、(カンボジア)CS代表ディム・チェッタ上人と共にこの式典を創作した。
キエ氏は、言う。「もし仏教をより明瞭に知ろうと思うならば、先ず清浄で満たされた心にならなければならないでしょう。我々の宗教がこの世の中にほとんど広まらないのは、個人的なプライドなどというものに執着しているからです。教主釈尊は、まったく反対のことを仰っています。釈尊は、仏教がこの世界のあらゆる国のあらゆる人々へ広まることを願っておられます。
キエ氏は、付け加えて言った。「佛法の姿形とその深遠なる意味は、今尚仏陀在世の時の
ように存在しているのです。コロコロと絶え間なく変わる私たち人間の心と知性が、法をねじ曲げてしまっているだけなのです。 カンボジアのアンコール時代には、大乗仏教が信じられていました。その中でも最高の仏教者であるチェイバラマン7世王は、観世音菩薩の化身とされています。」
キエ氏は、続けて言った。「現在大乗仏教は、なお日本に於いて修行されています。しかしクメールは、マハニカイ上座部仏教に転向し、ほぼ100%のカンボジア人がシャム仏教に随っています。」
カンボジアCSの代表ディム・チェツタ上人は、我々に知らせた。「この式典は、日蓮聖人の第725回忌の法要『お会式』と『施餓鬼会』即ちベトナム対アメリカ戦に巻き込まれて死んだわが国の人々殊にポルポト政権下において殺戮されたカンボジアの国民の霊を弔うためのものです。」

付記 : 1)翻訳協力(クメール語→英語) チャウル=ティー氏
   2)括弧( )は、取材で話した内容ですが新聞中落ちて いたので付け加えさせていただきました。 〔 〕の括弧内については、新聞に掲載された内容です。
   3)青字について
・当時、四方僧伽 代表は、福岡県報恩寺の副住職 井本 勝幸 上人 です。当時わたしは、日本の四方僧伽代表代行という立場ではなく、四方僧伽カンボジアの活動をファシリテートするために派遣された一僧侶に過ぎませんが、なぜかそのような記事内容になっています。新聞記者の誤解だと思います。                            ・時ならぬ桜の開花については、10月頃に咲く桜もあることは説明しましたが、それについては掲載されませんでした。
・富士山については、私の話した内容ではありませんが恐らく新聞記者の方の日本へのイメージなのでしょう。
洪水についても私は述べたつもりはありません。                                  ・流行病のことは申しましたが、新聞にはこれが落ちていたので何らかの原因で間違って伝わったのでしょう。
 何しろ行事当日の取材でしたので当方にも充分な用意があったとは言えず、また私の力不足から不適切或いは不足の事柄が多々あったかと存知ますが、その点につきましてはお詫び申し上げます。 

 

 

小さな弟子と身延山に参拝しました。

<その1>

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1月11日から12日にかけて、一泊二日で身延山に参詣してきました。中学一年生の男の子、ガクト(仮名)も一緒です。11日から中学校は始まりますが、彼は、両親の承諾を得て、わたしにくっついてきました。

ガクトは、わたしの教え子の息子です。ですが身延で出会った人たちは、ガクトを、わたしの孫だと勘違いしていました。

ガクトは仏縁のある子のようです。六十歳を越えた坊主と二人で寺に詣でたいと言う中学生は、普通はいないでしょう。ですが、ガクトは、学校がある日だけれど、わたしと一緒に身延に行きたいと両親に懇願したのです。

彼は、修行をしたかったようで、「身延山に行ったら水を被るんですか」などと、わたしに質問しました。水を被ることはしませんでしたが、彼にとってはよい修行になったようです。・・・・・https://kasinoki1957.hatenablog.com/entry/2022/01/14/005400

<その2>

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身延山での二日目は、昨日とは打って変わって快晴でした。朝五時半に宿坊を出て、六時から始まる久遠寺の朝勤(ちょうごん)に向かいました。都心に住んでいるガクトは、星がきれいに見えることに感動していました。

広い久遠寺の本堂には一切、火の気がありません。厳しい寒さの中に座して、読経、唱題をすると、清々しさを感じました。ガクトも神妙に手を合わせていました。初めて聞く大太鼓の鳴り響く音は、驚きであったようです。

朝勤を終え、宿坊に戻って朝食を済ませると、身延山の山頂にある奥の院・思親閣に向かって、本堂西側の山道を登り始めました。山頂までロープウェイで行くこともできますが、それでは修行になりません。

山頂までは、寄り道をしなければ、歩いて約3時間です。わたしたちは、山中で亡くなった人の供養塔など、さまざまな場所で合掌、唱題しながら登りました。・・・・・https://kasinoki1957.hatenablog.com/entry/2022/01/14/163529

 

 

 

Zoom chanting practice scheduled for January 2022

The chanting of our temple is a fusion of the ultimate wisdom of the Buddha and modern science to heal the mind under the stress and suffering of modern life, to bring peace of mind, and to realize a fulfilling life.

Topics: Chanting Practice A. Healing / B. Peace of Mind (From this month, the Chanting Practice will be divided into A. Healing / B. Peace of Mind)

(Time) January 2022, 08:00 PM-.

A. Healing section is more for those who seek deep healing now. You can also just listen to it. ⇒ January / 8(Sat), 15(Sat), 24(Mon), 29(Sat)

B. Peace of Mind is for those who want to go one step further from the healing stage and actively chant. ⇒ January / 10(Mon), 12(Wed), 19(Wed), 26(Wed), 31(Mon)

You can choose to participate depending on your own situation. Of course, it is possible to participate in both. (In principle, camera off, mute)

In both cases, chanting will be performed with small Dharma talks and commentaries (prayers may be included).

(Participation fee) None in particular. (Prayers may be included.) (Fee) None, but we would greatly appreciate it if you could voluntarily make a donation to support this chanting or our overall activities. Please send your donations to: https://yousyouzi.net/?p=565&preview=true

If you would like to participate (even if you participated last month), please send an email to the following email address (your name and intention to participate). daiho_cs@yahoo.co.jp

In principle, participants will turn off and mute their cameras. (Since only I (Daiho) will be shown on the screen, each participant will practice the chanting as if they were one on one with me.)

If there are any changes or cancellations, they will be posted on the front page of the Yochoji website as soon as possible, so please check there.

If you would like to learn more, please contact us. ⇒daiho_cs@yahoo.co.jp

 

ハワイ大学で授業 11/7

ハワイ大学のジョイ教授のお招きにより、講義をさせていた。「内なる平和=Inner Peace」という大タイトル8回シリーズの2コマが、私の担当となった。ちなみに私の前回(第6回)は、オバマ前米国大統領の妹、Maya Soetro -Ng 博士(オバマ平和研究所)であった。このような方と共にレクチャーをさせていただくというのも世界平和の基礎として私たちひとり一人の「内なる平和」の実現が、今日いかに大切かを示唆しているものと思う。

テーマ ”悲嘆(グリーフ)とたましい”
行学融合 スタイルの講義です。観念的な講義にとどまらず実践・実感を重視する。
①ハワイ大学ジョイ教授による私の紹介、②講義、③読経瞑想(自我偈)、④質疑応答
(下のユーチューブからご覧になれます。)
この実現にあたっては、ホノルル妙法寺住職&オペラ歌手の山村 尚正上人ならびに通訳ディーン氏、その他皆様方の多大なご尽力を頂きました。深く御礼申し上げます。  合掌

1人、花、テキストの画像のようです

1人、花、、「COLLEGE OF SOCIAL SCIENCES MATSUNAGA INSTITUTE PEACE University Hawari Manoa Inner Peace/Meditation Practice & Learning Series November 6th 3:00-4:00PM ADDRESSING THE SOUL/SPIRIT GANDHI'S CONCEPT OF SOUL FORCE: SATYAGRAHA SPIRITUAL ENERGY VITAL FORCE CONCEIVED AS CONSTITUTING, RESIDING IN, OR EMANATING FROM THE SOUL」というテキストの画像のようです

今回のテーマは「悲嘆=Griefとたましい」(下のパンフには、テーマは、「たましい」になっているが、依頼で変更になったのです)
特にこのコロナパンデミックにおいて、重症化、死亡において他とは異なる悲嘆の背景がある。世界的な問題でもある。かつて潜在意識の領域として扱われた問題でもあり、たぶん未来に影響する。
そんなテーマと講義の依頼が、私のところに来たのも不思議というか、時代の流れなのかも知れない。悲嘆についての悩み相談は、しばしば受けている。
もちろん、ここにおいては、医学という視点だけでなく、心理学、精神医学、特に仏教的視点からお話しさせていただいた。具体的には、知られざる葬儀の意味~故人や家族レベルから社会レベル。
今回原稿をつくるにあたって、改めて深く共感したいくつかの言葉をあげてみたい。
上智大学グリーフ・ケア研究所所長の島薗 進先生
「死別の悲しみは、なくそうとしてもなくならない。ただ悲嘆とともにある私たちの在り方が、変わる(変われる)のである」
精神科医ジグムント・フロイト
悲嘆には、悲嘆の仕事がある。
ナチ強制収容所を経験した精神科医 V.E.フランクル
人生に意味があるかを問うのではなく、人生の方からわたしたちに常に「今この状況の中でいかに生きますか?」と問われている。→はっきり言って、すごい発想の転換 = 生きる基本姿勢として採用させていただいています。苦も楽もすべて人生の課題となっています。
精神科医、終末期医療の先駆者、エリザベス・キュブラ―・ロス
死の宣告を受けた人の死の受容の難しさと受容しえた場合の人生における輝かしい意味。
仏陀
その死の向き合いを若く健康な時に実践することにより、死の恐れから解放された平穏で自在な新たな生を実現した。このことに気づいていただくとグリーフ・ケアは飛躍的に進化・深化する可能性がある、と考えている。
そして、
かつてあった宗教的、社会的支え(人間どうしの支え合い)が衰微して個人レベルで悲嘆に向き合わなければならない現代人の厳しい現状の理解のもとに新たな方法を見出さなければならない時代である。また、それに寄り添い支えるための新たな人やシステムの構築に向かって・・・・それが、つい五十年以上前の葬儀・法要にあったとは、今日どれくらいの人が知るであろうか。グリーフ・ケアは、勿論のこと壮大な感情と行為の浄化と希望を生み出すために構成された仕組みであった。
今後脳の意外な構造と機能を広く理解した上で話し合える状態になりたいものだと思う。これが、わかれば「こころ」という問題、自由意志、トラウマ、カルマのことが、かなり実感され、理解されると思う。そこらあたりからが、スタートなのではないかな、この時代は、・・・宗教ではなく、人生の実践の道~心の科学とその実践。