『世界平和の祈り』について
修行上の弟子 小島 弘之 上人のブログ『世界平和の祈り~体験する仏教』より
ウクライナの状況を思うと胸が痛む日々が続いています。
今、多くの人々が世界の平和を祈っていることと思います。
「祈ることくらいしかできない」と言う人がありますが、この言葉には、「祈りには効果がある」という確信はありません。はっきりと「祈ってもしょうがない」と言う人もいます。
ですが、わたしは、平和の祈りをする人を素晴らしいと思います。世の中には、自分のことだけにかまけて生きている人が多くいるのですから。
さて、本当に祈りには効果がないのでしょうか。実は、祈りについての科学的な研究が行われており、祈りが他者に及ぼす効果が確認されているのです。
医療ジャーナリストのリン・マクタガードの著作『パワー・オブ・エイト』(ダイヤモンド社刊)の帯には、次のように本書が紹介されています。
「病気の人を癒そう、世界から紛争をなくそう、という思いから始められた集団で意識を送る実験。世界中に参加者を募った大規模実験から、わずか8人の小規模実験まで規模を変え、ターゲットも植物の種子から人間、世界の紛争地域までさまざまに変えて得られた結果は、あまりに素晴らしく、予測を超えたものだった!」
他にも医学博士のラリー・ドッシーなどの優れた祈りについての研究があります。ラリーには『祈る心は治る力』(日本教文社刊)などの著作があります。
彼らの研究では、祈られた人だけではなく、祈った人にも明らかな癒しの効果が見られたことも報告されています。
先日、斉藤大法上人とジャカルタのエルフィナ妙布上人の呼びかけで、ウクライナ問題の収束に向けて、インターネット上で僧俗を問わず複数の方々と唱題による世界平和の祈りをしました。
祈らせていただいて、わたしは祈りがウクライナの人たちに届いた実感を得ました。「それは思い込みでしょう」と言われれば否定はできません。ですが唱題の声は自ずと変化し、重たかった唱題の声が、最終的に安らかな声となったのは事実です。
唱題中はただひたすら唱える南無妙法蓮華経と一つになる「無願の唱題」をしました。先のラリー・ドッシーの著作には、「~でありますように」という祈りの言葉を捨てた「沈黙の祈り」が充実した祈りとして紹介されていますが、これは「無願の唱題」と相通じる祈りであるといってよいようです。
一人の祈りには限界があるかもしれないけれど、確かに祈りには力がある。そうわたしは実感しています。
ウクライナと世界の平和の祈り
24Hrs Odaimoku offering to heal the World の有志(東南アジア各国, ホノルル, 日本各地)による。 この祈りは、日本時間の2月28日 午後1時~2時 第1部 / 午後5時~6時 第2部 に行われました。
<午後1時~2時 第1部>
<参加者> 児玉 日海 上人 (京都 本昌寺) / 平井 智親 上人 (鎌倉 安国論寺) / 山村 尚正 上人 (ホノルル 妙法寺) / Lee Beng, Kannonji Temple KL, Malaysia / Yeap Guat Khim, Ichinenji Temple Penang, Malaysia / Chloe Neoh, Ichinenji Temple Penang, Malaysia / Lilian Ichinenji Temple Penang, Malaysia / Ervinna Myoufu 上人 (ジャカルタ 蓮華寺) / 木村 洋介 柳谷 正 ・藤原 秀博 ・ 石黒 晃子 /・斉藤 大法 (以上5名 埼玉 要唱寺)
<午後5時~6時 第2部>
<参加者> Lee Beng, Kannonji Temple, KL, Malaysia / Yeap Guat Khim, Ichinenji Temple, Penang, Malaysia Srilanka Sangha, Busshinji Temple, Srilanka Mrs. May Lee, Klang Sangha, Malaysia / Lilian, Ichinenji Temple, Penang, Malaysia / Eravin Dainty, Rengeji Temple, Jakarta Ervinna Myoufu 上人 (ジャカルタ 蓮華寺) / 木村 洋介・ 柳谷 正・ 藤原 秀博・ 石黒 晃子・ 小島 弘之・ 斉藤 大法 (以上6名 埼玉 要唱寺)
南無妙法蓮華経を唱える その1
小島 弘之 『僧侶の唱題体験記』 ブログ 体験する仏教 より
南無妙法蓮華経を唱える その1 – 体験する仏教 (hatenablog.com)
『法華経』を理解せずして南無妙法蓮華経を唱えても意味はない。「南無妙法蓮華経」というのは「法華経に南無します」という意味なのだから。「南無」とは「いのちを託します」ということ。理解できてもいないものにいのちを託すことは愚かである。
『法華経』を学び始めたころ、そう思っていました。ちなみに『妙法蓮華経』というのは『法華経』の正式名称です。
ところが、日蓮聖人の教えに触れてみると、南無妙法蓮華経を唱えるのが正行(しょうぎょう)、すなわち行の中心、根本で、『法華経』を読むのは、それをサポートする助行であるという位置づけになっていました。「エッ、これって逆さまじゃないの」そう思いました。
日蓮聖人が生きた鎌倉時代、庶民に『法華経』を読んで理解してもらおうというのは、小学校一年生に『中央公論』を読んで理解してもらおうと思うのと同様のこと。それゆえ、日蓮聖人は、庶民には「ただ南無妙法蓮華経と唱えていれば救われる」と説いたのだ。
そのような意味のことを、ある社会学者が書いていました。そう思っている知識人は多いようです。
「よく意味が分からなくてもよいのです。『法華経』は日蓮聖人が最も尊いとおっしゃる御経です。ですから南無妙法蓮華経と唱えましょう」そう言って「わかりました」と頷く現代人はまずいないでしょう。
ですが現代、先祖供養ではなくて、自らが救われるためにお題目(南無妙法蓮華経)を唱える人の数はお、念仏(南無阿弥陀仏)を称える人の数を圧倒的に凌駕しています。何百万という数の人が朝晩、お題目を唱えています。
それはお題目系の新宗教が説く現世利益に心惹かれる人が多いからでしょう。お題目を唱えれば病気は平癒し、家内は安全。そう説く新宗教は多くあります。いっぽう、そのような新宗教の信仰者に熱心に入信を勧められ、辟易したり引いてしまったりする人がいるのも事実です。
わたしは、現世利益を真っ向から否定するつもりはありません。ですが、わたしの目的とするところは、たましいの救済と目覚めでしたから、現世利益を得るために南無妙法蓮華経を唱えようとは思いませんでした。
では、『法華経』が理解できていなくとも、南無妙法蓮華経を唱えれば、たましいは救済され、仏の世界に目覚めることができるのでしょうか。
このことについて日蓮聖人は、はっきりと「できる」と言われているのを、わたしはその著作(「ご遺文」と呼ばれています)を開いて知りました。びっくりしました。そのご遺文について、次回のブログの記事で紹介します。
2/16 世界を癒す 24時間御題目リレー 報告
2月16日は、日蓮聖人 御降誕 に当たります。この記念すべき日に世界中の日蓮宗の有志僧侶や寺院などにより『世界を癒す 24時間 御題目リレー』が行われました。
当寺院では、16日午後4時~6時まで、住職 斉藤 大法、修行僧 小島 弘之、その他のメンバーがZoomにて参加して祈りました。 以下その時の録画です。
(1)メンバー : 住職 斉藤 大法 修行僧 小島 弘之 石黒 晃子 柳谷 正 木村 洋介が、唱題を通して祈る、とともに 唱題体験の感想・小対談。 https://youtu.be/l19QLDTLg78
(2)メンバー : 住職 斉藤 大法 修行僧 小島 弘之 による祈り。https://youtu.be/lBZTRweeEn8
『ふだん私たちは、良いと思う未来を描いて、頑張ってそれを実現しようとしています。それは、脳に保存された過去の体験の記憶や学習した知識を基に良かれと思って描かれたイメージなのですが、そこには、しばしばその人なりの固定観念やご都合というものが入り込みます。視野の狭さも問題になります。それが、苦悩や諍いの原因ともなっているのです。 唱題は、そういう在り方とは、180度異なるアプローチだと言えます。仏陀の永遠という時間の長さ、宇宙大の空間的視点に基づく無限の慈悲と智慧が織りなす世界を直接体験するものです。その結果として宇宙的摂理に適合した 癒し、平安、自在な発想と行動が、自分たちがつくり出すというよりもたらされるようにして実現するのです』